栄養週期理論の作物観

■生物としての作物
  栄養週期理論の生命観は、生物は複雑な有機体として存在していて、単純に物理化学的な手法により理解できるものではないという立場に立っています。
  生物を精緻な機械と考え、生命現象を物理化学的法則で解明しようとする立場があります。「機械論」的な見方などともいわれます。これに対して、栄養週期理論の生命感は、物理化学的な手法のみから生物が理解できるものではないと考えています。物理化学的観点からの研究は重要ですが、それだけではなく生物としての自律性に眼を向けます。また、栄養週期理論は歴史性や変化を強く意識しているので、「動的」な見方です。
  これとは別に、生物の全体は部分や要素からだけでは説明できないとし、独自の原理をもつとする立場があります。これを全体論(生気論)などといいます。全体論は、生物は、部分や要素に還元できない独自の原理をもっているというように見る点では栄養週期理論とも共通しています。しかし、全体論は、ある絶対者がいてその絶対者の目的にしたがって生命が生きているというような宗教的な視点を持っていて、それは栄養週期理論にはありません。
  栄養週期理論は、科学的に自然や作物に向き合おうとしてきました。様々な過去の研究成果を踏まえ、広く観察を行い、数多くの実験をして科学的な方法を主体としながら生命観、作物観を築いてきました。その結果として、生物は物理化学的に要素に分解するだけでは理解できるものではないという見方に立っています。
  科学技術には、物質の理解が必要ですが、関係性に関する理解や変化に関する理解も必要です。分析的結果のみに依存する作物栽培ではなく、分析的に把握された科学的データ、観察により得られた知見、そして栽培の現場で得られた知見、さらに生物としての作物に対する生命観、そういったものを含めて技術として体系づけていく。栄養週期理論はそのような視点からの技術体系を目指したものであるということができると思います。
 
■作物も人間と同じである
  私たち人間は、あるときこの世に生を受けます。その後、子供は成長していきます。幼稚園、小学校、中学校、高校と年をとるに連れて、体も大きくなり、精神も生長していきます。そして、親になり、子を作り、育て、死んでいきます。このような成長に応じて、人間は異なる姿を現します。体が変化し、また精神も変化します。栄養素に対する要求も異なってくるでしょう。また、人間は幼いころと成人したころと異なる姿を現しますが、一人の同じ人間であり続けます。変わって行くところと変わらないところの両面をもっています。
  作物に対してもこのように見ていきます。
 
■生物としての自律性
  作物の発育における重要な要素を述べた、大井上康(2011)の特徴的な言葉を以下に掲げます。
 
 「作物の発育は作物自身がきめるのであって、決して外的な因子が決めるのではなく、外部の因子はその発育の上に量的な制約をするに過ぎない。死んだ種子は生えない。ましてや石は芽を出さない。生きた種子だけが、芽を出せる環境において芽を出すのである。芽を出せる根本的な因子は、実は生命そのものの内部にあるということを知ることが大切であって、生命という作物自体の内部にあるもの以外の一切の力ではないのである。そして同時に外部の因子はそれを強めたり弱めたり、あるいは早めたり遅めたりするような、量や速度の制限以外には何らの決定する力もないことを知らねばならない。したがって栽培学は、これまでの農学のように外的な因子の作用に重きをおきすぎてはならないし、内部的な生命の発展性を軽く見たり、無視してはならない。」
 
  このように、作物それ自身の自律性、内部に注目し、環境を重視しすぎないほうが良いと述べているように読み取れます。しかし、大井上康氏は、「栽培の学問は、生命を持った作物の発育の仕方と、環境の変化がそれに及ぼす影響との両方から作り出さなければならない」とも書いていますので、環境を軽視しているというよりも、作物の生命としての自律性を特に強調しているのだと考えるのが良いと思います。
  生物である作物は、時間的な変化、環境の変化、さらに体内の変化の中で、うまくバランスを取りながら生きていて、そのような状態を目安にしながら作物を誘導することが、作物栽培において良い育ちをもたらすと考えています。
 
《参考文献》
大井上 康. 2011.「新栽培技術の理論体系 再改訂版」. 日本巨峰会.
(原著:大井上康. 1945. 新栽培技術の理論体系)