日本巨峰会 概要

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株式会社日本巨峰会の概要

商号
 株式会社日本巨峰会

設立
 ・1967年(昭和42年)07月31日 有限会社として設立
 ・1980年(昭和55年)05月07日 株式会社に変更

資本金
 2,000万円

目的
 1:農業・園芸用資材並びに果実の販売
 2:農学および園芸に関する書籍の刊行並びに販売
 3:商標登録の保護とその使用に関する管理業務
 4:前各号に付帯する業務

主な事業
 ・巨峰の資材等の販売
 ・微量栄養素の発売
 ・園芸資材等の販売
 ・栄養週期理論関係の書籍の販売
 ・商標権の保護と実施料の取得

役員構成
 ・代表取締役 赤坂芳則
(農業生産法人 有限会社イーストファームみやぎ 代表取締役社長)LinkIcon

 ・取締役 恒屋冬彦
  (日本巨峰会 職員 / 環境関連コンサルタント会社 職員)

  ・取締役 今村一夫
  (農業経営者 福岡県うきは市 巨峰、ブドウ、カキ、文旦など)

  ・取締役 岡本信一
(有限会社アグセス 代表取締役)LinkIcon

 ・監査役 栃木博
  (農業経営者 栃木県小山市 巨峰、ブドウ、水稲、キウイフルーツ、栗など)

所在地
 〒168-0072 東京都杉並区高井戸東 4-11-29
 TEL:03-3333-2920
 FAX:03-3332-8452

日本理農協会 概要

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日本理農協会の概要

名称
 日本理農協会

設立
 ・1952年(昭和27年)03月16日 「日本理農技術協会」として設立
 ・1954年(昭和29年)08月21日 「日本理農協会」に会名を変更
 ・2008年(平成19年)      「株式会社日本巨峰会」と統合

目的
 ・栄養週期学説による新栽培技術の研究と普及に努め、農業の経済的発展かつ文化的向上に寄与する。

主な事業
 ・『理農技術』の編集と発行業務
 ・学習会および栄養週期理論の啓蒙活動

「大井上 康」に関する略歴

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大井上 康の略歴

1892年(明治25年)8月21日
大井上康、誕生。
広島県江田島の官軍兵学校宿舎で、海軍少尉大井上久麿の次男として生まれる。
軍人になるべきところを、幼時に結核性関節炎を患い、片足が不自由であったため、農業技術者を志す。

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1914年(大正3年)
東京農業大学を卒業。

1917年(大正6年)
茨城県「神谷酒造」が経営する「牛久葡萄園」の主任技師として招聘される。

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1919年(大正8年)
「大井上理農学研究所」を設立(現、東京都港区麻布)
同年、研究所を静岡県下大見村(現、静岡県伊豆市中伊豆町)に移転し、ブドウの研究を本格的に開始する。
しかし公的な研究費用の支援など一切なかった為、経済的には困窮していた。農産物の販売、メッキ加工による売り上げで、研究費用と生活費用をまかなっていた。

1922年(大正11年)~1924年
語学に長け、フランス、イギリス、ドイツなどの海外文献を広く読破しただけでなく、フランスなどヨーロッパ10数か国を視察し、各国の農学、ブドウ栽培技術、ワイン醸造技術などを学ぶ。
フランスを訪問した時に、フランスの農学の基本が、「土壌肥料学」に重点を置く日本とは異なり、「植物生理学」に重点を置く理論体系、栽培技術に強く魅了された。

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1930年(昭和5年)
900ページの大著『葡萄の研究』を発表
日本人初の「フランス農芸学士院(科学アカデミー)」の会員となる。

1936年(昭和11年)
農業技術専門誌『農業及園芸』の誌上にて「栄養週期説(理論)」を発表。

1937年(昭和12年)
豪州品種「センテニアル」×岡山県産の日本品種「石原早生」の交配に着手する。

1941年(昭和16年)
日本が第二次世界大戦に参戦。
果樹は「不用不急作物」「贅沢品」とされ、果樹栽培、果樹研究にとって苦難を迎える。「大井上理農学研究所」で栽培、育種していたブドウも軍隊によって没収された。

1942年(昭和17年)
豪州品種「センテニアル」×岡山県産の日本品種「石原早生」の交配に着手し成功。
日本の高温多雨多湿の気候に適した、4倍体品種である、ブドウの新品種、品種名「石原センテニアル」商品名(商標名)「巨峰」を誕生させる。

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1945年(昭和20年)9月
『新栽培技術の理論体系』を出版。(現在、第11版を発売中)
『作物栽培技術の原理』を出版。(絶版)
『栄養週期適期施肥論』を出版。(絶版)

「全国食糧増産同志会」が結成される。
代表:石津忠
顧問:大井上康
技術部長:恒屋棟介
本部技師:矢富良宗
本部技師:大井上静一

「栄養週期理論」を普及する活動は、戦中にも全国で活発に行なわれたいたが、戦後の食糧不足を解決すべく、同志50名が伊豆に集い結成された。
結成後、「全国食糧増産同志会」の同志は、約30,000名、町村支部は1,200箇所、栄養週期理論の実践者は200,000名を超えるまでに拡大していった。
しかし、その勢いと同時に、この頃から、農林省(現、農林水産省)主導の農業指導、栽培技術とは異なることなどから異端視され様々な圧力を受け始める。

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1946年(昭和21年)1月
『家庭菜園の実際』を出版。
戦後の食糧難時代を背景に、自給用野菜を栽培する一般国民向けの書籍を出版した。
(2006年に社団法人農村漁村文化協会より復刻新版される)

1949年(昭和24年)5月10日
『肥料と施肥の新研究』を出版。
肥料と施肥方法についての正しい知識をまとめた良書である。
第4版(1993年)が発行された後、絶版となっているが、いまだに多くの農業関係者から復刻が望まれている。

1950年(昭和25年)12月6日
第9回衆議院「農林委員会(委員長 千賀康治)」に参考人招致され、全国の農村で活躍する農学者の見地から食糧増産に関する参考意見を求められる。

1952年(昭和27年)3月16日
「理農技術協会」が発足される。
「全国食糧増産同志会」の活動の方向性が、設立当初の「栄養週期理論」の普及活動とは逸脱し、政党の党利党略に利用され政治活動へ傾倒していったために独立分離した。
(東京都世田谷区下馬町)

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1952年(昭和27年)4月15日
『理農技術誌』第1号が発行。

1952年(昭和27年)9月23日
大井上康 逝去。
(享年60歳)
理農学研究所には、終生、野に生きて農業の技術革新に尽くした大井上康の胸像と記念碑が建っている。碑文には「何よりも確かなものは事実である」という言葉が記されている。

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「恒屋棟介」に関する略歴

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恒屋 棟介の略歴

1911年(明治44年)8月8日
恒屋棟介、誕生。

1929年(昭和4年)
福岡県立中学修猷館(現、修猷館高校)を卒業。

1932年(昭和7年)3月
千葉高等園芸学校(現、千葉大学園芸学部)を卒業。
胸部疾患のため、郷里福岡で療養生活に入る。

1935年(昭和10年)4月
福岡県八女郡光友尋常小学校教諭に着任。

1936年(昭和11年)4月
福岡県立田川農林学校教諭に着任。
果実を担当。

1939年(昭和14年)4月
福岡県立糸島高等女学校(現、糸島高等学校)教諭に着任。
生物学を担当。

1943年(昭和18年)4月
熊本県立宇土中学校(現、宇土高等学校)教諭に着任。
生物学を担当。
この時期、大井上康の「栄養週期理論」に出会う。

1945年(昭和20年)
「全国食糧増産同志会」に参画し、技術部長に就任する。

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1947年(昭和23年)
『栄週叢書 馬鈴薯編』を出版。
全国食糧増産同志会刊

1949年(昭和24年)
『栄週叢書 甘藷編』を出版。
全国食糧増産同志会刊

1950年(昭和25年)
『栄週叢書 水稲編』を出版。
全国食糧増産同志会刊

1952年(昭和27年)4月15日~2002年
会報誌『理農技術誌』第1号を発行。
以後、第1号~第517号までの全号の編集、執筆にかかわる。

1955年(昭和30年)7月1日
『微量栄養素と施肥設計』を出版。
理農技術協会刊

1955年(昭和30年)
『新しいタバコの栽培技術』を出版。
理農技術協会刊

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1957年(昭和32年)
『新しいブドウの栽培技術』を出版。
日本理農協会刊

1963年(昭和38年)10月15日
『商品米の生産 理論と実際』を出版。
明文書房刊

1971年(昭和46年)11月15日
『巨峰ブドウ栽培の新技術』を出版。
博友社刊

1977年(昭和52年)12月10日
『ブドウ・巨峰の発育診断』を出版。
博友社刊

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1985年(昭和60年)10月25日
『ブドウ・巨峰事典』を出版。
博友社刊

2002年(平成14年)7月6日
恒屋棟介、逝去。
(享年90歳)


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「日本巨峰会」と「日本理農協会」に関する経緯

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日本巨峰会に関する経緯


1952年(昭和27年)3月16日
「理農技術協会」が発足される。
(東京都世田谷区下馬町)

1952年(昭和27年)4月15日
『理農技術誌』第1号が発行。

1952年(昭和27年)9月23日
大井上康 逝去。
(享年60歳)

1952年(昭和27年)
「大井上理農学研究所」代表に大井上静一が就任。
「理農技術協会」理事長に恒屋棟介が就任。

1953年(昭和28年)6月1日
「巨峰」種苗名称に登録を申請する。
「農産種苗法」に定められている、新品種を創出した育苗家の功績をたたえ、販売の権利と利益を確保するために、農林省に種苗登録の申請を行った。
(「農産種苗法」は昭和22年に施行された(法律第115号)法律で、現行法令には「農産種苗法」という名称の法律はなく、「種苗法」に改正された)

1954年(昭和29年)8月21日
「理農技術協会」から「日本理農協会」と会名を変更する。

1954年(昭和29年)10月25日
「巨峰」を特許庁に商標出願(ブドウ果実と種苗)する。

1955年(昭和30年)10月13日
特許庁より、ブドウ果実について「巨峰」の商標許可が下りる。
(商標番号第472182号)

1956年(昭和31年)2月15日
「日本巨峰会」を発足する。

1956年(昭和31年)3月15日
「九州理農研究所」を開設する。
現福岡県久留米市田主丸町の地元同志に、越智通重が招聘され「九州理農研究所」を開設された。

1957年(昭和32年)3月6日
「巨峰」種苗名称の登録が拒絶される。
1953年(昭和28年)6月1日に農林省に種苗登録の申請したが、許可審議に3年間も費やした結果、不許可となった。
農林省から届いた公式文書には「花振るい(ブドウの)や単為結果、脱粒(ブドウなどの)がひどい巨峰は栽培価値がない」と記されていた。
結局、公的に認められたのはブドウ果実の商標だけだった。
その後、巨峰は農林省が種苗登録も認めず、奨励品種ではなかったために、巨峰を栽培する際に、農家は国の公的資金制度は利用できなかった。

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1958年(昭和33年)8月19日
「九州巨峰会」が結成される。

1963年(昭和38年)3月16日
「大井上康先生記念碑」除幕式が行われる。

1964年(昭和39年)03月
「日本ブドウ研究所」を開設する。
千葉県山武郡大網白里町に、巨峰ブドウの栽培技術の研究開発、栽培技術の確立、子弟の教育のために開設した。

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1967年(昭和42年)7月31日
「日本巨峰会」を法人化し「有限会社 日本巨峰会」を設立する。
代表取締役に恒屋棟介が就任。

1976年(昭和51年)4月6日
「秋田県巨峰会」が結成される。

1978年(昭和53年)
「日本理農協会」および「有限会社 日本巨峰会」の事務所を移転する。
(杉並区高井戸東4-11-29)

1979年(昭和54年)4月21日
「大井上康先生胸像」除幕式が行われる。

1980年(昭和55年)5月7日
「有限会社 日本巨峰会」を「株式会社 日本巨峰会」に変更する。

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1982年(昭和57年)~
「台湾巨峰会」が発足される。
恒屋棟介は、巨峰の栽培指導にあたるため、毎年台湾の産地を訪れた。

1984年(昭和59年)12月4日
「大井上康先生記念館」が修復完成する。

1992年(平成4年)
「台湾巨峰会」10周年記念式が行われる。

2002年(平成14年)7月6日
恒屋棟介、逝去。
(享年90歳)

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2006年(平成18年)2月
「株式会社日本巨峰会」代表取締役に赤坂芳則が就任。

2006年(平成18年)12月10日
『家庭菜園の実際(現代用語復刻新版)』が復刻出版される。
1946年(昭和21年)に出版され絶版となっていた『家庭菜園の実際』が、「感動農業研究会」の編集および協力により、社団法人農村漁村文化協会より復刻新版される

2007年(平成19年)9月1日
『巨峰物語』が発刊される。
福岡県久留米市田主丸町、「巨峰開植50周年記念」事業の一環として発刊された。
表紙には「巨峰を愛し、守り続けた田主丸の人びと その涙と苦闘の半世紀」と記されている。

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2008年(平成20年)4月1日
『大井上康 講演録』が出版される。
大井上康が1950年(昭和25年)2月15日に埼玉県浦和市(現、さいたま市浦和区)に行った講演会の記録を元に、「感動農業研究会」の編集および協力により現代の用字用語に置き換え出版した。

2008年(平成20年)2月23日
「株式会社日本巨峰会」の資本金の増資を行う。
「日本理農協会」を「株式会社日本巨峰会」と統合する。

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2012年(平成23年)5月1日
『新栽培技術の理論体系』 補筆改訂版が出版される。
1945年9月31日の初版から、実に67年目、第13版となる。
書籍および文字のサイズが大きくするなどの手を加え、読みやすくした。

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