栄養週期理論と巨峰栽培
の苦難の歴史 

 ★異端の栄養週期理論 
  栄養週期栽培では作物の発育に応じて肥料として与える栄養素の質や量を変えます。これは一見当たり前のことのようですが、このような栽培は農業界の主流では行われてきませんでしたし、今も行われていません。。
  一般的には、元肥(作物を植える前や生長を開始する前に土に与える肥料)を中心に肥料を与えます。元肥以外に追肥とか補肥として与える場合も多くありますが、施肥体系の中心は元肥になっています。また、追肥や補肥は、補足という視点が強いようです。一方、栄養週期栽培では、作物は発育の段階に応じて必要な栄養素の種類は異なると考えており、与える肥料を変えていくのが特徴です。
  栄養週期理論が1936年に発表され、それを総合的に展開した単行本「新栽培技術の理論体系」が発行されたのが1945年ですが、慣行的な栽培と基本が異なることから、その頃から「怪しいもの」として位置付けられてきたようです(「栄養週期栽培に対するかつての見方」参照)。
  巨峰Ⓡブドウを作出した大井上康氏は、この栄養週期理論の提唱者です。そのためか、巨峰もまた、当初は苦難の道を歩むことになりました。そこで、まず巨峰栽培の経緯をたどってみます。
 
★巨峰栽培における栄養週期栽培の実践
   大井上康氏は1942年にブドウ巨峰®を作出しましたが、戦況が厳しさを増し、氏の生前は巨峰の栽培技術の確立、普及は十分に行うことができませんでした。大井上康氏が亡くなったのちに、その後継者たちが巨峰の栽培方法を研究し、普及活動を行ってきました。
  大井上康氏が他界したのち、恒屋棟介氏が中心となって理農技術協会、日本理農協会(共に日本巨峰会の前身)を継承しました。また、恒屋棟介氏は自ら「日本ブドウ研究所」を設立、主宰し、研究活動を続け、栄養週期理論に基づく巨峰栽培技術の確立に尽力しました。恒屋棟介氏は数多くの著作を残していますが、その中で、ブドウに関する以下の著作を著わし、栄養週期理論に基づくブドウと巨峰の栽培に係る研究と実践の成果をまとめています。
 

  • 恒屋棟介.1971. 「 巨峰ブドウ栽培の新技術」. 博友社
  • 恒屋棟介.1977. 「ブドウ・巨峰の発育診断」. 博友社
  • 恒屋棟介.1985. 「ブドウ・巨峰事典」. 博友社

 
  また、大井上康氏の後継者の一人、越智通重氏は、福岡県田主丸において、九州理農研究所を主宰し、栄養週期理論に基づく巨峰栽培技術を研究しました。ここでは、先駆的な巨峰の自園売りブドウ園の確立に貢献しています。田主丸における巨峰生産については、以下の書籍に詳しく書かれています。
 

  • 巨峰開植50周年記念実行委員会.2009. 「巨峰物語」. 花書院

  
  上記の恒屋棟介氏と越智通重氏は共同で、大井上康氏が栄養週期理論について書いた「新栽培技術の理論体系」の改訳、補筆版を出版しています。また、この両人以外にも、大井上康氏の子息である大井上静一氏を含め理論的かつ技術的な指導者と呼ぶべき幾人かの後継者がおり、それらの方々を中心にして、日本理農協会(日本巨峰会の前身)に会員として登録した全国の生産者の方々が栄養週期栽培に基づく巨峰栽培を実践していきました。
 
★巨峰の種苗名称登録申請の拒絶と商標登録
   上記の理農技術協会は、農林省(当時)に巨峰の種苗名称登録(品種登録)の出願を昭和28年(1953年)に行いましたが、登録が認可されることはありませんでした。この点について、農水省OBの西尾敏彦氏は自書の中で次のように述懐しています(西尾 2010)。
 
  「巨峰」はいわば気むずかし屋の天才児のような扱いにくい品種である。倍数体品種の宿命で環境変化に弱く、着花稔実が不安定で、栽培がむずかしい。とくに生理的落果(花ぶるい)を生じやすいのが、最大の欠点とされた。有名な話だが、昭和28年(1953)に農林省に種苗登録の申請をしたが、この花ぶるいが問題になり、「農家が栽培するには、技術対策が不十分」とクレームがつき、却下されたという。わたしも農水省のOBだが、当時の国の方針は少しでも農家が失敗しそうな技術の普及を極力敬遠したものである。(先を見る目がなかった)といわれれば、返す言葉もない。

  • 《参考文献》 西尾敏彦. 2010. 「農の技術を拓く」. 創森社

 
  出願当時、農林省の意向で、種苗名称登録(品種登録)ができそうにないことがすでに予想されたことから、日本理農協会では、特許庁へ巨峰の果実と苗の商標登録申請を行っていました。そして、果実は認められました。ただし、苗については認められませんでした。
  巨峰が、品種登録を拒絶されたとき、当時の農林省は花振いなどの欠点を指摘していますが、結果的にはその時に巨峰の栽培価値がないと判断したことになりました。当時、巨峰に対しては営農資金の貸付が拒否されました。
 
★巨峰生産の広がり
  果実の商標が登録されたこともあり、会社の設立が検討され、昭和42年(1967年)に当社(現:株式会社日本巨峰会)が設立されました。そのころには、大井上康氏の後継者による栽培技術の研究、先駆的な生産者たちの実践により巨峰が広まっていきました。そして、巨峰の市場価値が高いということが明白になっていきました。
  このような状況を受けて、それまで巨峰栽培の研究、栽培などに否定的であった機関や団体の人たちが一気に巨峰栽培に参入します。このようにして巨峰栽培に参入してきた人たちの中には、巨峰の商標を無視する人たちもたくさんいました。この状況について、巨峰の栽培方法を研究し、広めることに努力してきた恒屋棟介氏は、1980年代に以下のように述懐しています。
 
  巨峰の発育生理学的研究をいかなる機関も団体も、それを非難することはあっても、経済的にも精神的にも援助しようとする動きすらなかったことは、今日彼らのとっている巨峰ブドウ導入の“すさまじさ”と対比して、不可解でなりません。はじめは営農資金の貸しつけを巨峰ブドウであるか故に拒否し、次に市場値が高いことが分ると圧倒的導入、そしてその地域の開発的先駆者に重圧を加え、傘下だけの量産体制を急ぎ、市場の独占さえもはかるという行動、これが今日栄養価、品質の低下さらに農薬公害、商品の混乱さえ生みだしている1つの原因と考えます。
(「巨峰ブドウの開発、研究の歴史的事実」より抜粋)
 
  巨峰ブドウは、いつのまにか日本で最も生産されるブドウになりました。最近は、巨峰以外のブドウも多くなり、巨峰の相対的な生産量は減ってきていますが、それでもまだ多い状況です。また、多くの品種が巨峰と交配して生み出されている現状を見ても、巨峰の存在の大きさが良くわかります。
  現在、日本巨峰会を中心として栄養週期理論に基づく種(タネ)ありの巨峰の栽培が行われていますが少数派です。多くが農薬である植物成長調整物質を用いて発育を管理する種(タネ)なし巨峰栽培に代わってきました。
 
★栄養週期栽培への異端視
  上述した巨峰ブドウ栽培の経緯の中に、栄養週期栽培への異端視が関係しているとみる人が当日本巨峰会にはいます。ひとつは、種苗名称登録(品種登録)が拒絶されたことです。これは、技術的理由で拒絶されたことになっていますが、申請者が栄養週期理論の研究団体である日本理農協会であったことが拒絶された理由であったと考えている人がいます。また、巨峰の商標を組織的に無視する人たちが現れたことも、そのことが関係していると見る人がいます。栄養週期理論に基づく巨峰栽培は、国の農業指導、栽培基準と異なっており、それを受け入れたくない人たちがいたのだろうというのです。
  このような異端視は、今でも続いているように見えます。
  世の中には多くの農業に関する専門書がありますが、栄養週期理論を取り上げている学術的専門書はありません。また、大井上康氏の大著「葡萄の研究」や、恒屋棟介氏の「 巨峰ブドウ栽培の新技術」「ブドウ・巨峰の発育診断」「ブドウ・巨峰事典」などは一般の出版社から販売されている本ですが、それらが参考文献として掲載されることはほとんどありません。たとえば、巨峰ブドウの栽培を題材とした比較的新しい論考に、すでに上記の本に記載されていたり、検討されていたりすることでも参考とされていません。研究分野では学術論文が最も重視されますが、書籍であっても参考とすることはよくありますので、意図的に避けているようにも見えます。
  その理由を少しまとめてみます。
  まず、上述したとおり、大井上康氏を中心としたグループが国の進める慣行的な栽培技術と異なる方法を主張してきたということにあります。そして、時に厳しく慣行的な農法を批判してきました。しかも、大井上康氏が主催した「大井上理農学研究所」も恒屋棟介氏が主催した「日本ブドウ研究所」も、自費で運営した民間の研究所です。かつては今以上に官尊民卑の傾向が強かったと思われます。
  また、理論のヒントとして自然弁証法的な見方をしていることも関係しているように思います。大井上康氏が理論を形成したころは、弁証法といえば、マルクス・エンゲルス、社会主義思想というイメージにつながることが多かったと考えられます。大井上康氏とその仲間の活動は栽培技術の研究・開発と普及活動を中心としたもので政治団体ではありません。しかし、農業を取り巻くかつての封建的な状況に対する改革の意識を持ち、また批判的な発言もしてきました。このため、戦前から戦後にかけて排除すべき危険な思想を持つ団体として位置付けられた可能性はあると思います。戦前の大井上康氏の講演会には、特高警察が様子を見に来ていたと語っている方もいます。
  このようなことからくる負の印象が、今に至るまで引き継がれてきたのかもしれません。
 
★変化のきざし?
  上記のとおり、栄養週期栽培や巨峰の開発者たちは主流の方々から煙たがられてきました。しかし最近では、上記の西尾敏彦氏の本、NHKの番組(注1)、朝日新聞の記事(注2)、農文協の出版する現代農業誌の近年の記事、2020年の家庭菜園誌「野菜だより」などの記事にあるように、栄養週期栽培のことが普通に紹介されるようになっています。朝日新聞の記事に、西尾敏彦氏がコメントを寄せ、その中で、「大井上さんの栄養週期理論も異端視されました。いま思えば合理的、ごく当たり前の考え方でしたが、当時の主流は『どこでもだれでもできる技術が一番』でした。」という趣旨のことを書いておられます。「ごく当たり前の考え方」という表現からみても、栄養週期理論が「怪しいもの」ではないということは、理解されやすい状況になってきているといえるかもしれません。
 
注1:NHK BS2
 「いのちドラマチック ブドウ‐豊満な果実に魅せられて‐」
                      2010.10.6
注2:朝日新聞 夕刊
 「昭和史再訪 大粒の夢追った在野の学者」 2010.9.18