『新栽培技術の理論体系』

 

『新栽培技術の理論体系』 補筆改訂版(2011年)


「栄養週期理論」を展開した書籍
 
  本書は大井上康氏が栄養週期理論を論じた本です。栄養週期理論を学ぶ上で最も重要な著作です。栽培とは何か、生命とは何かという思索から始まるこの書は、栽培テクニックのみに興味がある方には、ちょっと付き合いにくい本かもしれません。一方、作物の栽培を、深く理解したいと考えている方には参考になると思います。「作物の発育」、「発育と環境との関係」、「施肥の考え方」、「栄養週期とは」、「農業における技術とは」などに関する事柄が、研究成果を踏まえて論じられています。議論の展開に当たっては、数多くの国内外の学術文献、試験結果が引用されており、引用文献として掲載されています。また、筆者自身の実験結果も本文中に数多く掲載されています。大井上康氏が在野の研究者であり、また慣行的な栽培方法に批判的であったことから、当時の権威者たちの中には、怪しげな理論と位置付ける方々もいたようですが、その姿勢はどこまでも「科学的」です。是非とも、みなさん自身の目で判断していただければと思います。


目 次
 
第1章 栽培技術の基礎理論
 第1節 栽培の概念
 第2節 生命
 第3節 作物体の発育
  第1項 発育史
  第2項 生長と発育
  第3項 発育週期
   (1) 発育の段階
   (2) 栄養生長
   (3) 生殖生長期
   (4) 交代期
   (5) 体内炭水化物一窒素関係の生態的意義
   (6) 作物体内栄養物質の定期変異
  第4項 栄養生長の二つの型
   (1) 消費生長
   (2) 蓄積生長
   (3) 基本生長と補填生長
  第5項 定期位相
 第4節 作物体発育の二次的性質
  第1項 栄養生殖両生長の描抗性と依存性
  第2項 生長の傾向
  第3項 栄養生長体と生殖生長体との質量相関
  第4項 成熟
  第5項 作物体の形勢
  第6項 作物の発育型
  第7項 潜在形質
  第8項 経歴性
  第9項 適応性
  第10項 抵抗性と免疫性
  第11項 作物の地上部生長量と地下部生長量の関係
  第12項 茎の生長方向
  第13項 同質器官の競争
  第14項 休眠
  第15項 悪条件下における耐貯蔵性
  第16項 出来過ぎの現象
  第17項 出来過ぎの矯正法
  第18項 定限飢餓の生態的影響
  第19項 秋落現象
  第20項 栄養型の推移
  第21項 栄養型の転調
  第22項 栄養の落差
  第23項 移植
  第24項 収量
  第25項 収穫物の品質
 
第2章 作物の発育と環境
 第l節 土地の肥沃度
 第2節 気候型と発育型
 第3節 豊凶について
 第4節 発育初期の窒素のT/Rに及ぼす影響〈無肥料出発の理論)
 第5節 播種,植付,及び耕作
  第1項 播種及植付の密度と時期
  第2項 耕作
  第3項 除草
  第4項 生長量と収量と施肥量
 
第3章 施肥論
 第l節 肥料成分の単独的効果
 第2節 肥料成分の協働効果
 第3節 肥料成分間の拮抗性
 第4節 肥料成分の干渉性
 第5節 四重要肥料成分の単独的効果
  (1) 窒素の単独的効果
  (2) 燐酸の単独的効果
  (3) 加里の単独的効果
  (4) 石灰の単独的効果
  (5) 微量栄養素の単独的効果
 第6節 施肥の技術
 第7節 施肥の時期
 
第4章 栄養週期
 第1節 栄養週期栽培技術の概念
 第2節 技術と品種の改良
 第3節 栄養週期栽培技術の理論的要約
 第4節 果樹栽培技術の理論的要約
 
第5章 農業技術論
 第1節 技術の本質
 第2節 技術の機動性
 第3節 技術の価値判断
 第4節 労働の生産性
 第5節 技術と経済
 
第6章 主要文献
 
 

初版の序文

 
  科学がその方法論において過失を犯すならば、其の研究成果は、たとえ如何なる努力と熱意が傾注されておっても必然に誤謬を結果するものであるから、学に従うものは常に反省と深慮とを此処に致して過誤なきを期せねばならぬ。生物学及び其のいう処の応用部門に於て、特に一層此の点に留意する事を必要とするが、それは生命的存在は決して機械的性格のみを有するものではないからである。
  生物を対象とし、それに変更を加えて生産目的を達せんとする技術に貢献するための科学は、あくまで其の研究対象の生命的本質を把握すべき必要がある。今日までの如く、理論の直結的実地応用なるものが、技術と解せられたり、生物の環境のみが発育を規定するとなすが如き、一面的見方は速かに放棄されなければ、生物に関する科学は其の進歩の前途を早<も閉されるに至るであろう。
  生物の発育はあくまで生物の中に其の契機が存在する。外的条件はこれに量的制約を加えるに過ぎない。今日の農学が理解するが如く、例えば、施与すべき肥料成分の量及び比率を決定するものは、作物の種類、気候要素及び土壌的条件の三因子のみであるとなすが如きは明白に誤謬である。此処では発育の主体たる作物の状態や、其の定期位相を無視して、単に作物を栄養生理学の上から固定されたるものして取り扱って来た事を示すに他ならない。斯の知く作物を単純に外界因子について物理的ないし化学的に考察し得た結論から左右しようと企だてる方法の達成し得る限界は既に明瞭なのである。肥料の知識、土壌の知識、気候知識……しかもそれはあくまで作物との関連から遠ざかり、それら自身の本態究明にのみ努められた……の所謂、綜合判断と称する合作的方法に基いて得られた結論を技術の骨子であるとして来たことは、栽培という生産目的の技術の上からは、結局何等の決定的な改善をもたらすものではなく、単に技術体系内の一操作についての合理化を企て得たにすぎないのである。栽培技術の進歩のため、技術体系全体の合理化が必要なのである。
  栽培学は作物との関連の上に立って来たのには相違ないが其処では、やはり作物の発育という時間と共に変化する発展性を無視して、種類という特殊性を考慮におく以外、作物の生活史的進展Evolutionに盲目で、固定的慨念的論理の展開にのみ急であったのである。発育史のどの時代をとっても、単に等しき生理が営まれているとする機械論が、人の経験的直観的な認識に、少くとも技術において、しばしば敗北する現実の生産面を見る時に、吾人は今日の科学に、既に反省が生れ出ずべき動機を見出さなくてはならぬ。学校に於て学ぶ正確な理論的知見が何故に現実の生産にそのまま役立たぬのか? 何故学校を出でて直ちに農耕の実際にその価値を反映せしめ得ぬのであるか? 知識人が全く無教養のものに実際においては劣敗を招くのか? すべて今に明白となるであろう。
  栄養週期説による栽培技術については非難が高い。然し其の非難する側が、実はかえって非科学的態度に終始して居るものであることは歴史が之を解くことであろう。
  結局、今日以後の農学は先づ生物学と農芸化学とを統一しなければならず、また此の場合の生物学はあくまで発生学的な生態論に重点をおいて行かなくてはならぬ。発生学も従来のように、初期発育のみに止まらず、全生活を通じて研究を進め、その進め方も、今までのように発生力学にのみにこだわらず、むしろ、発育学とも云うべきものが作られなければならない。著者は発育化学、発育生理学の部門を創設しなくてはならないと思っているのである。そして時間経過と形態の変化は重要であるから、発育形態学を特設する必要がある。生態学的農学は生理学的農学をも含め、且つこれを揚棄(ようき)※注1 すべきである。刻々進展変化をつづける形態は、それに不可分に関連する生理を究めて行かねばならない。物質変化としての作物体の研究は、勿論化学と物理学とを以ってせねばならないが、然し、それはあくまでも生命現象の外側的一面であることの理解に於て行い、どとまでも定性的な観察帰納と固く結びついて行く事を要するのである。そして技術はそれ等の知見を参考とし、踏み台として、どこまでも栽培の現実的な体験の中からつくり上げられなくてはならないのである。
  著者は理論的立場においても、はたまた実際上の面からしても、学的良心を貫きつつつ、此の小著を学界技術界に提供して、真に農耕の技術及び理論に携わる人々の最も真面目なる熟慮を求めるものであって、ドイツの知く農学旺んにして農業栄えざるが如き事のないよう、農学に従事するものの心に銘すべきを切望する。
  終りに本書著述進行について、石津忠、藤村信雄、恒屋棟介及び矢富良宗諸氏の親身な手伝いをいただいた事を深く謝するものである。
 

昭和20年9月31日 著者


※注1
揚棄(ようき)
 ヘーゲル弁証法の基本概念の一。あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。止揚。揚棄。アウフヘーベン【(ドイツ)Aufheben】。
『大辞泉』より

 

 改訂版の序文

 
  本著ニ版から第四版まではステロにとってあった為めに、修補訂正も不可能に近かかったのと、著者の多忙とで何等手もつけずにしてしまって遺憾至極であった。何しろ、此の著は戦争の最中空爆の激しい時に寸暇を盗んで書き上げたのだし、印刷の時は敗戦の直後とて、一切が秩序を失った時であったから、誤植など法外に多く、著者の頭の中も充分落ちついたものでなかった時のものなので文も粗雑、内容も不十分な個所があり、データ等も整理がつかず、散逸したものも出来、他人に貸与した文献なども行方知れずになったりしたのが少くなくて、甚だ意に充たぬものが出来上ってしまったのである。
  今回改訂版を印刷するに当って改訂の機会が得られたので、多忙で相変らず落ちついた気分にはなれなかったけれど、誤りを訂し、データを加え、意に充たぬ文を修めて一応責任の持てるものとして此の増訂版を出す事にしたのである。読者は此の版から以後のものを以って先づ著者の真に説こうとするものであると見てもらいたいと思うから、これ以前の版のものを読んだ人でも、今一度改訂版を熟読してほしいと思う。科学技術は常に休みなく前進する。よって著者の研究も勿論これで前進を止めるものではない、休みなく終生まなぴ.研究実験し、思惟して技術者としての責任を果して行きたいと念願するものである.

研究室において
1947年12月31日 著者

補筆改訂の言葉

 
   故、大井上康先生によって、栄養週期説が世に出てから既に久しい年月が経過した。その間、世の学界、技術界からきびしい批判と反対をうけつつ今日比至っている。しかし、現実の農業の世界においては、はなはだ多くの事実が、この栄養週期説を黙殺することの出来ないものとする段階にきている事は何人も疑う余地はないであろう。
  しかし過去において、この栄養週期説にもとずいて、私たちが技術を指導し、またこれを信じて実施した多くの農民の具体的な個々の手段や方法には、勿論その成果も多かったが、その反面或いは多少の誤りがあったかも知れないととは、私たちも真筆な気持でこれぞ認め、反省しなければならないであろう。
  とは言え、個々の技術的な手段とは別に、この栄養週期説そのものについては問題は別であり、その真理性については、私たちは、寸毛もこれを疑うものではないのである。それにもかかわらず、何故に学界、技術界から疑問や反対がもたれ、正しく理解がされなかったのであろうか? それにはやはりそれなりの理由がなければならない。そこで私たちは、この問題について、この機会に少しくふれて見たいと思う。
  18世紀におけるアルブレヒいテーヤないしユスツス・リ-ピッヒに端を発した唯理主義的な農学は、その後一般の自然科学の偉大な進歩に影響きれて、応用科学のーつとしてこれまた偉大な成果をおさめたことは疑うべくもないことである。しかし、農学は、その応用科学としての特質上、単一な純枠科学によってだけ完成され、正しく発展するものではないので、あちゆる分野の科学、即ち物理学や化学はもとよりのこと、生物学、地理学、統済学、或は哲学までもふくめて研究されなければならないはずのものである。しかも農学の直接の対象が生物である以上、生物学はその中心的な役割をもつものでなければならないと思う。
  ところが、一方において、近代の自然科学は、その中でも特に物理学と化学が他のものに比べて特別に大きな発展をとげたために、物理学や化学が自然科学を代表するかのような観が生れた。そのため農学に及ぼした影響もまた物理学や化学が最も大きなものであった。これは或る意味では自然な成り行きであったかも知れないのである。したがって、農学の研究方法や考え方も、物理学や化学の方法にならい、そのような方法論が、近代の科学的な農学の方法論であるという考え方が一世を風靡しているのが現状であろう。
  私たちはこのような農学の方法論が凡て誤りである等とはもとより考えないし、又、不要であるとも思わない。そればかりではなく、或る面では非常に大切であり、それによって今日の高い農学が築き上げられたのであるからその意義は充分に認められるし、今後も必要なことなのである。然し、そうだからと言って、先にものべたように農学の直接の対象が生物である以上、これまでの方法論とは別な方法論があっても良いはずであると信じており、むしろ生物学的な方法論とそ農学において重要視されなければならないものであるという考え方も成り立つはずである。ところがここで言う栄養週期説は、実はこの生物学的な方法論によって出発し、発展しつつあるものなのである。このことが、これまでの農学界において、多くの誤解や、反対や、不理解の最も大きな原因をなして来たものであろうと私は考えている。したがって、物理学や化学の方法論だけが科学的な農学の唯一の方法論であると信じている今日の農学界にとっては、或いは止むを得なかったことかも知れないのである。しかし少くとも科学の方法論は、唯一無二のものではないととは、世界の科学史がこれを雄弁に物語っている。したがって、農学者も、科学に最も忠実な、しかも応用学の使命である農業の現実の発展のために、最も真筆な態度で自分の持つ方法論とは別な方法論に対しでも、冷静な態度で目を向けてほしいというのが私たちの願いである。
  この私たちの願いは、単なる論争や感情のためのものでは決しでなく、これまでの農学の中に、別の新しい方法論が現実にしかも日本において生れているという事実が、世の農学者及び農民に、もっと広く知れわたることによって、現実の農業がより急速に発展し、ひいては農民の繁栄が期待されるであろうと信ずるからは他ならない。
  栄養週期説は、もとより完成されたものであるとは言えないであろう。しかし、少くともこれまでとは別な方法論による農学の出発点であり、新しい一つの考え方や研究の方法或いは研究の方向が示されたものであることは疑うべくもないことである。したがって、この研究を進めることによって、新しい研究のテーマが続々と生れてくるのである。
  そこで大井上先生のご他界後、久しく絶版になっていたこの偉大にして意義深き著書を私たちはもとより、全国の農民も、そして農学者、技術者も、あらゆる人々が、いま一たぴ静かに読み返して見る時が来ているように思うのである。
  これが此の度日本理農協会が、この解編の出版を思い立った動機である。もとより私たち、浅学菲才のため、偉大なる大井上先生の世界観、自然観、生物観、農学観、そして、科学観と技術観が、この改訂出版によって誤り伝えられるとすれば、その責任はかって私たち個人にあるものであるから、心ある人は、すべからく原著をも同時に熟読くださることを願って止まない次第である。
  なお、この解編については、栄養週期説を研究した多くの先輩諸賢からのと意見や批判のあることは充分考えているし、又、そのようなご意見は、ご好意として、ありがたく頂く考えである。
  最後に、この偉大な農学を後世も残して下さった大井上先生に、限りなき感謝の念をささげると共に私たちの微力を恥じつ、先生のご冥福を祈るものでる。
 
何より確かなものは事実である。
  科学の正否も、やがて歴史の発展がこれを裁くであろう。
 

1959年4月30日
恒屋棟介(監修、補筆)
越智通重〈解編、解訳)

 

◎改訂重版の言葉

  
  1959年、この書(改訂版)を出したころ日本の農村社会には収量第1主義が猛威をたくましくしていた。あるいはイネのV字型多収理論、果樹の晩期チッ素理論などがそれである。こうして襲ってきたリービッヒ理論の亜流……化成肥料方式がドロくさいしくみの中で、バク進するにつれ、品質は低下し、新しいヒズミを村々にまきちらしていった。
  発育史を無視した機械論がやがてぬきさしならない矛盾に直面するであろうことを、私どもはあらかじめ警告してきたが、まるで馬耳東風だった。
  しかしその予見の適中する日が来た。 
  1969年、こうして急激に、コメも、ヤサイも、クダモノも「量から質へ」への転換をせまられる時がきた。かたや栄養週期説の堤唱者……大井上康先生の手になる「巨峰」が官僚たちの妨害をしり目に、一大注目を集めるにつれ、いやおうなしに栄養週期説に近づくことをせまられてきた。
  さらにこうした中で、カルピン博士らは、光合成とりン酸との関連性をみごとに解きほぐしノーベル化学賞(1961年)をうけ、また20世紀の後半、アイソトープによる植物栄養の研究がすすむとともに、新しい側面から、栄養週期理論をうらづける素地をつくっていった。やがて栄養週期説は天動説にかわった地動説のような新しい地歩を占める日がくるだろう。この日のために、この版を重ね、この文を改めてつづる。

 
1969年4月30日
恒屋棟介

 

補筆改訂版 再改訂の言葉

  
 本書で解説されている栄養週期理論に対する無理解が、かつては農業界において広く見られたようであるが、近年はそのようなしがらみから自由に物事を判断する人々も増えてきたように思える。栄養週期理論の提唱者である大井上康氏(本書の原著者であり、ブドウ巨峰の作出者)や巨峰を紹介する最近のテレビや新聞において、栄養週期理論という言葉が特にこだわりもなく紹介されるような状況が生まれ始めた。栄養週期理論を広めるべく努力しながらもそれを果たせなかった人々にとっては、多少は良い時代になりつつあるということが言えるかもしれない。しかしながら、現実の農業界においては、作物の生長の段階に応じて必要な肥料を施すという栄養週期理論に基づく技術は必ずしも広まってはおらず、元肥を中心とした慣行農法が主体となっている。このため、相変わらず多肥料、多農薬が行われている。地球環境問題が注目される今日においては肥料や農薬を減じた低投入型の農業栽培技術が求められているのであるが、一部の意識の高い生産者を別にすれば、現実はかならずしもそれに答えるものではない。最低限の肥料により健康な作物の育成をめざす栄養週期理論に基づく栽培技術は、慣行農法とは一線を画しており、低投入型の作物栽培を実現する上で有効な手法である。この理論の普及は、生産量の増大や味の向上など産業上好ましいだけでなく、地球環境の保全の観点からも好ましいものである。
 さて、「新栽培技術の理論体系」の初版は1945年の出版であり、その後1947年に改訂がなされている。日本巨峰会ではこの改訂版を大井上康氏による原書版として再販している(1949年出版)。その後、本書の元になる補筆改訂版が、1959年に恒屋棟介および越智通重両氏の手により出版された。さらに1969年に改訂重版が出され、現在まで12版を重ねるに至っている。補筆改訂版においては、越智通重氏が改編、改訳を担当し、本文の加筆修正、注意書きの記述を行い、恒屋棟介氏が「微量栄養素の単独的効果」「栄養週期説に基く果樹栽培技術の理論的要約」などの項目の補筆と共に、全体の監修を行っている。これまで、この補筆改訂版が、栄養週期理論を学ぶ多くの人々にとって利用されてきた。
 このたび、日本巨峰会で出版している本書の在庫がなくなってきたため再印刷するものとした。しかし、折角再印刷するのであれば、改訂できる部分は多少なりとも改訂しようということになり、前の補筆改訂版で割愛された図表のいくつかを再掲載するものとした。また、新規に文字を打ち込んだため、数回の校正作業を行い、この際、わかりにくい文字、言い回しなどをできる範囲で修正するように試みた。大井上康氏、恒屋棟介氏は明治生まれ、越智通重氏も大正生まれであるから、今日あまり使われない表現も多く含まれていたのでこのようにした。しかし、もともと難しい書物なので、なかなか分かりやすくという訳にはいかなかったかもしれない。これについては、読者の方々の判断にゆだねることになる。
 栄養週期理論がさらに広まることを期待して、本再改訂版を世におくるものとする。
 

2011年4月1日
理農技術編集部
(恒屋冬彦)
 
※「理農技術」は、日本巨峰会の会員誌