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『大井上康 講演録』

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『大井上康 講演録』

大井上康氏の講演内容をまとめた本です。
大井上康氏が1950年(昭和25年)2月15日に埼玉県浦和市(現、さいたま市浦和区)に行った講演会の記録です。講演会の記録としては現存する唯一の資料から、現代の用語に直して出版されました。「栄養週期理論」は難解だと敬遠されることも多いのですが、この本の内容は話し言葉のため、わかりやすく「栄養週期理論」に基づく栽培方法を解説しています。

目次
 1:作物とは何か?
 2:栽培技術の考え方
 3:養分はどうして出来るか?
 4:栄養週期栽培法とクロス、クレービルの貴重な研究
 5:作物の発育と栄養の特徴
 6:経済と技術
 7:肥料の成分と単独的効果
 8:無肥料出発と経歴性

1:作物とは何か?


栄養週期の話をします。

食糧問題は非常に重大で、このまま推移すると、民族の滅亡のもととさえなる危険がみられるのです。
そのように重大なところまできています。
これを打開するにはどうしても増産をやる以外にありませんが、増産をやってゆくには、増産ができる方法を持っていなければなりません。
この増産の方法が、はたしてあるかないかということが、一番の問題になると思います。

だいたい多くの人々の意見は、日本ではもう食糧の増産ということはあまり望めない、望みがない以上増産をするということは、まずもって不可能だ、せいぜいできても1割か1割5分(ぶ)位のところだ、科学技術の粋を尽くしても、それ以上はちょっとも望まれないというもので、それは農業技術者の中にも非常に多いのです。

しかし、私どもはそうは考えない。
3割から4割は極めて容易で、場所とやり方によっては、5割、10割の増産も十二分に可能性があるとみています。
この可能性があるということは、いままでの科学技術というものが少しも間違っていないというのなら難しいことなのですが、いろいろな面から考えて、いろいろな欠点を持っているのです。
これを検討してゆけば増産の道が充分ひらかれるといえます。

これからこのことについて、少し皆さんにお話をしてみようと思います。

いったい作物というものは何であるか、また農業の技術というものは、どういうことをやることなのであろうか。
これらのことがまず明らかにならなければ、増産の対策というものは立たないと思います。
栽培の技術というものは、その栽培ということが本当にわかっていなければ、やれないはずです。

元をただしてその末が始めてわかるわけです。元の方をそのままいい加減にしておいて、末梢の方だけをとらえて、増産増産といっても効のないことです。
ですから真っ先に作物は何だということを、はっきり皆さんにお話しておきたいと思います。

いままでの農業の学問でも、作物とは何かということに対する定義があるにはあります。
しかし、その定義は、農業というものを技術的にみた場合の定義ではなくて、あまり技術のほうから考えて重要でないような定義の下し方がしてあるわけです。
が、私はこれを栽培ということに気付くように定義してゆこうと思います。

作物というものは、鑑賞植物や工芸作物では別ですが、食用に供する作物は、人間の食物を得るために作ることは明白です。
食物というものは、人間の食べるものですが、これはいったいどういうものなのでしょう。

これは皆さんご承知の通り、私たちの生命を維持するものであり、また私たちが子供の時に大きく育ってゆくために必要なものです。
この食物というものは、いまの知識で考えれば人間の養分になるもので、炭水化物、タンパク質、糖類、ビタミンというようなものが、すなわち養分です。
ところが、こういうものが含まれているからといって人間が食べ始めたのではありません。
これは、もっと人間の感覚から出たことです。
食べたいような色、匂いをしているものを食べてみて、そしてその中の美味しいもので、しかも毒でないものを食物にしたに相違ありません。
ですから食物というものは、味覚で定めたことなのです。

栄養ということは後からわかったことであり、最初は食べたかったから食べた、食えば腹の空いたのが満足するということで、食べたに違いありません。
このようにして、私どもは食物を食べたのですが、美味しいと感じることは、だいたい養分がたくさんあるということと関係があるのです。

人間の養分になるようなものが美味しさを舌に感じさせ、養分にならないものは美味しく感じないのです。
まず美味しいものを食べていれば、養分になるというわけです。
これは、昔、我々の祖先が、山や野原に生えている植物の中から食べてみて、一番美味しいものを食物にしたということなのです。
この食物になるような植物を人間が保護して、それだけを一ヶ所にまとめて生やすということが、農業の初めだろうと思います。

食糧になる植物が、あちらこちらに散らばっていたんでは充分需要が満たされない。また、だんだん人が増えてくるにしたがって、このままでは生きてゆけないということで、おそらくその当時の誰か利巧な人が、植物の種子が落ちると、そこにこれと同じものが生えるということを発見したのでしょう。
そして、なるべく皆がたくさんの食物を得て余計食えるようなものがなくてはならない、また、そういうものだけを生やせば、非常に都合がよいということがわかったのでしょう。
そこで誰かが考えて、不用の植物を取り除いて、食える植物の種子をまくことを考え出したのです。
そうすれば、まとめて必要な物が取れるということから農耕ということが始まったのだと思います。

ところで、一つ注意しなければならないことは、皆さんの食べるものが植物体の全体であるかどうか、ということです。

人間が食えるような植物は、根も葉も実もそっくり食べられるかというと、そういうものはありません。
実だけ食べられるもの、根を食べるもの、茎を食べるものというように、どこか一部分しか私たちは食物にしておりません。
それは、全部が美味しくないからです。
美味しいところは限られた部分であるということが、その理由です。

麦や米は種子が美味しい、柿や梨は果実が美味しい、ダイコンやニンジンは根が美味しいというように、その美味しい部分だけが食物になっているわけです。
だから、作物を作るということは、美味しい部分を取るためなのです。
余計なところは、考えに入れているわけではない。
柿の葉を食べようと思って作る人はいません(笑声)。
柿を作るのは、実を食べるのが目的であることは、とっくの昔からきまりきっていることと思います。

つまり、私たちが農業として作物を作るのは、食べられる部分を得るためです。
だから、だいたいにおいて食べられるところの量の多いものが作物として合格したわけです。
主要作物というものは、だいたい食べられるところの多いものと腹応えのあるものということになっています。
こういうものが作物として選ばれたのです。

作物はどうしてそのどこかの部分しか食べられないかというと、美味しい部分が非常に限られているからです。
美味しい部分はどこかというと、養分がたくさんあるところが美味しいということになります。
したがって、美味しいところを食べれば養分をたくさん得ることになってくるのです。
イモならば、でんぷんの貯まった、ふくらがった部分が美味しい。あそこに一番養分が含まれている。
イネや麦では種子が美味しく、そしてここに一番養分が含まれている。
それが食物になる由縁です。

どうして植物は、身体のどこかに養分を豊富に蓄えているのでしょうか。

この植物が養分を蓄える性質があるということは、今日考えてみて非常によくわかることですが、植物は決して人間のために養分を蓄えているのではありません。
植物自身のために蓄えているのです。
植物は来年の芽をふくために、または自分の子孫が自立できるまでの間の養分を貯めているのです。
長年生きている永年作物は、来年の芽が出るために必要な養分をしまっておかなければならない。
来年芽を出すことができなくては大変だからといって、作物が自分で研究をして養分を蓄えておくというわけではありませんが、とにかく結果からみると、その通り都合よくできあがっているわけです。

結果からみるとそうみえる。養分を蓄えて、それを使って来年の芽が育ってくるのです。

種子が地に落ちてから葉や茎がどうして、どこから材料をとってできあがってくるのか。
これは、それに必要な養分が種子の中にしまわれているからで、胚乳(はいにゅう)成分というのがそれです。
新しく植物が育ってくるのに必要な養分は、自分で蓄えておくようになっているわけです。
繰り返えして言いますが、植物自身が必要上蓄えているものを、我々は食物として利用する。
養分が充分に蓄えられたところで、その貯蔵物品を食物にしているというわけです。

作物がせっせと稼いで身体の中にでんぷん、タンパク質、脂肪など、いろいろなものを蓄えるのです。
それが身体の中にバラバラに散在されていないで、あるところにまとめてしまってある。
その貯めたものを、もぎとってきて、我々の食物にしようというので、人間が作物を作るのです。
作物が、養分を蓄える場所は貯蔵器官と呼ばれていますが、そういう場所の発達したものが、我々の作物に選ばれたと言ってもいいのです。
つまり、貯蔵組織、貯蔵器官というものが非常によく発達したものが、作物とされたわけです。
同じように養分を持っているものでも、その貯め方が下手でパラパラで一ヶ所に充分まとまっていないものでは、食用作物としては向かないわけです。

貯蔵器官の組織が発達したものが作物であるということを心によく入れておいてください。

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2:栽培技術の考え方


そうすると、農業の技術というものは、どういうことになるかということです。

まず、作物に充分養分を作らせるような手段を次々にとること。

第二は、この養分がうまく貯まるように仕向けること。

第三は、貯まった養分がある場所に集中して貯蔵されるように仕向けること。

この三つが作物を作ることの一番大切なことになります。

どのようにしたら養分がよくできるか、どうしたら養分が貯まってくるか、どうしたらうまく貯めるべき場所に運び込まれるか、ということを、私たちは外から手伝ってやるわけです。
作物の仕事を外部から援助するのが、人間の栽培の仕事です。

どんどん学問が進んでくると、どうしたら養分ができるのか、どうしてそれが貯まるのか、何故それがどんな具合に養分が運び込まれるかということがわかってきました。
これが昔はわからなかった。ただカンでやってきただけなのです。
経験上からこうやるほうが養分がたくさんできる、うまく貯まるようだということを知っていたのです。

農業では、この関係について、いろいろなことが考えられてきますが、いまの学問では、そういうことをはっきり意識して、そこから手段を考えてきた形跡は、あまりはっきりしておりません。だいたいこれがあいまいです。

このようにして、作物に私どもが食べたいと思うものを生産させるために、外部から作物に対していろいろな援助を与えるべきなのですが、実際にやっているのをみると、反対にこれを妨害しているものが非常に多くあるのです。
援助でなくて邪魔をしていることがたくさんあります。

養分が貯まらないようにしてみたり、あるいは養分ができないようにしてみたり、いろいろ間違ったことが行われている。
そのために、手を加えてかえって収穫が少なくなるということも、随所にみられます。
馬鹿な話です。
田んぼをいつまでも耕したりして、手を加えてとれなくなるように仕向けている向きがあります。

中耕やその他の手入れというものも、養分がたくさん作られて、そして、それがうまいこと運び込まれるようにするためにしているはずですが、逆な結果を生んでいる場合がたくさんあります。

肥料もそうです。

充分栄養を作らせるために肥料をやるべきなのに、反対に肥料をやってたまらないようにしているようなやり方がずいぶん見えるのです。
しかも愚かなことをすれば、単にたくさんとれなくなるだけでなく、大切な労働が生産を低め、時としてマイナスにしてしまうことにもなるので、文化農民の深く考えなければならないところです。
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