『商品米の生産』

 

『商品米の生産』


  この本は、1963年(昭和38年)に明文書房より出版されました。その後、第2版以降は日本巨峰会より発行されています。書かれているのは、栄養週期栽培に基づく稲の栽培です。ただし、栄養週期という言葉は使われていません。
  戦中から戦後にかけて存在した米の供出制度は、国が供給量を確保するために生産者から強制的に米を集めるものでした。その時、重要なのは供出量でした。本書はこのような供出米の生産を超えて、商品的価値の高い米の栽培を目指すものでした。そのために、必要となる方法を解説しています。
  特徴的なのは、発芽、幼苗、分げつ、花芽分化、出穂、開花、米粒の成熟等々、それぞれの時期に応じた栄養生理学的な検討を踏まえて、それぞれの時期に適した栽培管理のあり方を徹底して論じているところです。特に、発育の段階に応じたあるべき栄養状態、それに影響を及ぼす施肥について詳しく書かれています。そのような検討を踏まえ、後半の第2部では、移植栽培とともに直播栽培について具体的で実践的な栽培方法を解説しています。
  初版から既に50年以上経っていますが、米(コメ)の栄養価や食味を向上させたい方には参考になると思います。


 

目 次
 
第1部 稲作改造のための発育生理と発育診断
 
 第1章 稲作改造の考え方
  1:省費省力による良質多収の考え方
  2:良質多収のための稲発育の考え方
 
 第2章 稲作改造のための発芽生理
  1:健康な稲の発芽生理
   (1)発芽の良否をきめる種籾の質
   (2)発芽におよぽす籾の貯蔵養分
   (3)発芽を決定する外部条件
   (4)発芽の生理的条件
   (5)発芽の形態的変化
  2:稲の一生を左右する要素
   (1)生長におよぽす経歴性
   (2)ホーグランドの実験
   (3)発芽の診断
   (4)発芽の栄養生理
 
 第3章 稲作改造のための幼苗生理
  1:健康苗のための気候条件
   (1)幼苗の発育と水分
   (2)幼苗の発育と温度
   (3)幼首の発育と酸素
  2:健康苗のための土壌条件
  3:健康苗のための栄養条件
   (1)成苗の発育過程
   (2)成苗の栄養生理
   (3)育苗と無機栄養
 
 第4章 稲作改造のための分けつ生理
  1:すぐれた活着の生理と条件
   (1)活着と環境
   (2)活着と苗質
   (3)活着の条件
  2:すぐれた分けっと栄養
   (1)分けつとチッ素栄養
   (2)分けつとリシ酸栄養
   (3)分けつとカリ栄養
   (4)カリとチッ素の協働効果
   (5)分けつと成分比
 
 第5章 稲作改造のための発育転換
  1:花穂分化の生理
   (1)C/N関係説と花器分化
   (2)C/Nmの歴史的見方
  2:花穂分化と形態変化
  3:花穂分化と栄養生理
   (1)花穂分化とチッ素(N)栄養
   (2)花穂分化とリン酸(P)栄養
   (3)花穂分化とカリ(K)栄養
   (4)花穂分化と栄養比
  4:花穂の発育と栄養生理
   (1)花穂の発育と体内栄養
   (2)花穂の発育と養分貯蔵
   (3)養分貯蔵と施肥関係
   (4)花穂の形態的変化
 
 第6章 稲作改造のための生殖生理
  1:出穂、開花の生理と栄養
   (1)出穂の生理
   (2)開花の生理
   (3)受精の生理
  2:米粒の発育と成熟
   (l)米粒の発育
   (2)米粒の貯蔵養分集積
 
第2部 稲作改造のための実践
 
 第7章 移植栽培の改造
  1:移植栽培の特質
  2:育苗の改造
   (1)育苗の方向
   (2)良苗の条件
   (3)育首の形式
   (4)種子の条件
   (5)苗代の条件
   (6)苗代の播撞
   (7)苗代の施肥
   (8)苗代の管理
  3:本田栽培の改造
   (1)苗質の問題
   (2)苗質と本田条件との関連性
   (3)栽植密度
   (4)栽植方法
   (5)耕度と基肥
   (6)防除と除草
   (7)農用機械
  4:一般水田の稲作改造
   (1)本田の整地
   (2)植付
   (3)定植の方法
  5:単作地帯の稲作改造
   (1)単作地帯の特質
   (2)本田の耕起と代かき
   (3)植付け
   (4)施肥と管理
  6:寒冷地帯の稲作改造
   (1)寒冷地帯の特質と対策
  7:暖地秋落地帯の稲作改造
   (1)暖地の稲作
   (2)秋落ちの対策
   (3)秋落ち地帯の施肥管理
 
 第8章 直播栽培の改造
  1:直播栽培
  2:直播栽培の特質
   (1)直播栽培の問題点
  3:直播栽培の原則
  4:関東における直播栽培
  5:東北における直播栽培


序 文

  
 稲という植物、その生命体のあらんかぎりの機能を1つに結集して生みだしてくれる米という食品、これは日本人ならびにアジア人の血と文化を創造してくれたものである。この意味で、米は将来もまた欠くことのできない重要な食品の1つといえよう。
  ところで、この米という食品は、今や過去の供出米という古い観念から、新しい質と、すぐれた装いをかねた商品米へ急速に移らなければならない段階にさしかかってきた。
いいかえると時期別格差が後退し、等級別格差が前進することは必然である。
  しかし、不幸にして日本の米作りは、過去の戦時的、戦後的な観念にわぎわいされて、未だに供出米生産という質のともなわない、量本位の指導が根づよい。
だから商品米生産の新しい時代がきているにもかかわらず、その研究と技術はいささか立ちおくれたという外はない。これは、日本の農業と農民の発展のため、また消費者大衆のため、1つの不幸である。
  近ごろ、米の生産にあたって、多くの農用資材……たとえば機械、薬、肥料などが研究され、そして1つの役割をはたしてきた。しかし、それは今求められている商品米生産に直ちに結びつくかどうかは、疑問がないではない。なぜならば、求めようとするものが量から質へ移行してきたのだから、一様な手法、一様な資材で解決されないであろうことは当然なことである。それにもかかわらず、過去のものが、質的にちがったものにも一様に適用できるという通念……いいかえると、古い手で新しい事態をも形づくることができる、こうした考え方が日本人には何か残っている。こうした空気があって、その発展を自らさまたげている。
  いまや、栄養学的価値の高い、商品的価値の高い、いわば水分が少なく、炭水化物(デン粉)と蛋白、脂肪の比率の高い、そしてできるだけピタミン類とリン酸、カルシウム、カリ、テツ分などミネラルの多い米が要求されるであろうととは1つの事実である。そして、それによって始めて、日本人の体位と、健康と、平均寿命の延長など、体質改造に役立ちうるのである。だとすれば、その新しい時代の要求に、どのように米の生産を対応させたらよいかは、農業人の最も重要な問題点でなければならない。
  ところが、今まで、米の生産手段は、多かれ少なかれ、供出米生産の立場に立っていたととは否定できない。だから、その多くは、土壌の条件を必要以上に深く、豊かにすること……。機械による深耕、多肥による地力づくり、さらに外部からおそってくる病虫害を薬で防除するとと……これらが供出米生産の主な手法だった。こうした行き方が、それなりに何らかの目標を達成したことはいうまでもない。しかし、商品米生産にあたってこうした機械的な方法論だけでよいだろうか。真実に稲に心と目を向けている農民たちはこのかげに、意外に悲しい現実のあることを知っている。たとえば、豊凶の差が、気候型によって大きくあらわれること、品質がよくないこと、生産コストがかさんでいること。とくに気候型では倒伏と、未成熟が多く、労働の過重がおおく、経済的な不安が去らないことなどである。
  これは農民の経済と農民の生活にとって、大きな問題であって、これらを解きほぐしていくこともまた、農学にたずさわるものの大きな使命ではないだろうか。私は、こうした問題点を真に解きほぐしていくためには、新しい方法論をここにみちびき入れなければならないと考える。このように考えてくるとき、稲の発育生理をもっと重要に考えるとともに、もっと具体的にその理論と実践との統一をはかることが大切ではないかと考える。そして、その発育生理の立場から、機械、薬、肥料を考え直し、それを使いこなすということなしには新しい商品米生産はできるものではない。  
  とに角、すぐれた米を生産するには稲の発育の在り方が、これを決定する。そしてその発育は、発芽のし方、苗の育ち方、根群の発生のし方、そして分けつのし方、花穂分化のし方、開花成熟のし方に1つ1つつながりをもっている。しかも、気候により、土質により、品種により……その育ちはつねに一様ではない。そこには発育のヒズミ(異常〉さえ生れてくる。もし、この生理的なヒズミを予めつきつめ、診断できないとすれば、そして、それに対して機動的に必要な手段をうつことができないとするならば、稲の正常な且つ健康な発育をまっとおすることはできない。ここに病虫害、風水害、と生理障害、たとえば倒伏、未成熟などが現われ、減収と品質低下と、そして悲惨な労働の過重が生れてくる。多くの場合、これを災害だとして見すごしているが、人間の手段のまずさによる稲の発育のヒズミから引きおこされたものも意外に多い。
  今日、多くの農用資材が出現したにもかかわらず、倒伏を排除できないのも、未成熟による品質低下を解決できないのも、実はここにあるのである。
  だから、稲の発育生理の立場から、機械と薬と肥料をどのように使いこなすべきかを学びとったとき、はじめて機械と薬と肥料から振りまわされず、これを生きた場面に活用できるにちがいない。そして、そのとき、労働は軽く、分散され、収量は安定し、品質は決定的によくなると考える。
  これが商品米生産時代の1つの大きな新しい方向でおり、目標でなければならないと思う。真実に農民の経済と文化の前進をねがうときに。
  このようなねがいから書いたものが、この書である。新しい条件には新しい考え方と新しい方法論とが、何としても必要不可欠だということを、新しいすぐれた米の生産に心をよせ、心をくだいている真摯な指導者とまじめな農民に、真実に理解してもらうために。
  幸いにも、こうした新しい試みを快く引きうけて頂いた明文書房に対し、心から感謝の意をささげるとともに、またこうした研究と実験に長い間、広い耕地と時間をあたえられた、日本全土の研究者と農民諸氏に謝意を表わすところである。
 

1963年9月
恒屋棟介

 

再版の序文

 
新しい栽培技術の立場から考えると、現状を改めない限り、必ず行きづまるであろうと以前から予想していました。
ではそれは何故でしょうか。
 
・米の品質がよくないということ
中には「銘柄品種を選んでいるから、そのおそれはない」という人もいます。
しかしその銘柄米が誠にあやしい……冷害はうけるし、病虫害、生理障害等を最も受け易いのです。
 
・米価がはなはだ高いこと
経営面積が小きいから当然だといいます。
しかし、何としてもあの多肥、多薬、多機方式が高くしています。
言ってみればわざわざ多肥、多薬、多機方式で作るから高くなり、病害虫、生理障害への抵坑性を弱める。
だから殺菌剤が、殺虫剤だと多くなり、不健康米となります。
こうしてイネの体質を虚弱にし、それが農薬公害の米質につながります。
これでは消費者はたまりません。
 
このときこそこれを解決しよう。
でないと食管制度が変ったとき完全にどうにもなりません。
いわば今こそ米質改造のときであり、コストダウンの好機です。
 
それを目指した計画的集団的な「栄養週期米」生産のため、その重要文献として版を新たにしたところです。
 

1989年8月
恒屋棟介

 

第1部 稲作改造のための発育

 
生理と発育診断
 
第1章 稲作改造の考え方
 
1:省費省力による良質多収の考え方
 
稲という栽結植物が、人の手でつくられるのは、たんに多く収めようとするだけでなく、良い質の米をうるためである。
とくに現在、急速に量から質へ、いわば供出米から商品米へ移ってきているのを考えると、稲の生産技術も、過去の供出米生産を改造し、新しい商品米生産の方向に変っていく必要がある。
だから、今後の稲の栽培技術というものは、こんな目標をめざしたいものである。
 
1、いかにして安定多収をかちとるか。
2、いかにして最も優れた品質のものを生産するか。
3、いかにして生産コストを引き下げるか。
 
という3つの課題を、同時に解決していかなければ、新しい時代のうどきについていくととはできない。
 
このような立場に立って、稲の栽培学をひもとくに当たって、最も大切なのは、稲という栽培植物がどのような発育をしているかということである。
いいかえると、栽培者が稲の発育生理をもっと歴史的に理解してかからない限りは、安定収量も、品質改造も、生産費の切り下げも、たやすく解決できるものではない。
 
ところが日本の農業は、稲の栽培ばかりでなく、稲そのもの、栽培植物そのものの実体を、もっと深くつかんで取り組もうという態度がはなはだうすい。
いわば栽培の対象である稲自体をみつめるというよりは、栽培植物のまわりの条件、たとえば気候とか、土壌とか、こういった環境条件にひどく頭と手と力をつかってきた。
いや、いまでも、その傾向がほとんどわがもの顔に歩いている。
だから、収量の安定性が低く、品質がますますよくない方向に動き、生産コストがいよいよ高くなりつつあるのは、こうした生産手段に対する誤った傾向から生れてきたものである。
 
たとえば最近、とくにいわれている深耕の問題にしても、また古くから説かれている地力の問題にしても、土壌という環境をよくすることだけが、あたかも農業の経済を前進させ、農村の文化を発展させるというようにのべられてきた。
なるほど、あるところでは、ある年、これらがその1つを解決したようにみえることもあろう。
しかし、いつまでもそうした手段が、収量を永続的に安定させたり、品質を決定的に向上させたりするかといえば、そうではない。
 
現在、米の生産は大きくのびたといわれながら、商品米の生産がなされていないのは、こうした供出米生産にだけ依存しているからである。
しかも、この深耕するという手段にしても、地力をつくるという手段にしても、生産コストの面からみると、出費を多くしたというだけで経済的に必ずしも好ましいとはいえない。
ぞれにもかかわらず、多くの農民はややもすると追いつめられた動物のように、これでもか、あれでもかと、あちらこちらから聞きおよぶ限りの方法を、雑然とそそぎこもうとする。
 
そのたびに生産コストはかさみ、自ら疲れ、若い青少年たちから嫌われようとしていることすら、半ばおかまいなしである。
しかし、このように人間のウデのカと生産費を、稲のまわりにそそぎこんだものが、一たび気候の変調にぶつつかると、病害と倒伏、不稔に直面する。
ここに収量は不安定になってしまうし、また品質をひどく落してしまう。
こうしたことは多かれ少なかれ、日本の農業の宿命となっているようである。
 
何故であろうか。
これは過去の長い歴史の過程の中で農民は長い間、自ら考えること、自ら学びとるととをさけるように導かれてきたことにもよるだろうか。
だから、その習性は、今に至るまで体のどこかに受けつがれ、力を大地にぷっつけるととが農業であるという錯覚すらもつようになった。
これはもちろん、農民自体の罪ではないかも知れない。
しかし、いま民主主義をうたい、たたえる時代において、もし、この力による農業にしか魅力をもたないならば、とれがどんな機械力によっておきかえられても、あまりほめられるものではない。
 
まず、農民の生活が何故に豊かにならないのか。
そこにはいろいろなみにくい政治的なからくりと、後手ばかりの農政のまずさにもあろう。
しかし、ここで考えたいのは、農業人の生活態度、生産手段の中にも欠けるところがないかということを考えてみよう。
いわば、農村の生活態度の中に、生産手段の中に、いくつかの誤りと矛盾がひそんでいないかということである。
 
多くの場合、そこに誤りと矛盾が、身辺にまつわり過ぎている。
そのために、農業の生産は不安定で、コスト高である。
しかも現代、最も要求されている商品米の生産も、省費省力もなかなか解決しない。
したがって、新しい時代には新しい方法論をもってしなければ、新しい前進も、正しい発展もないということである。
 
では、いったい、この新しい方法論とはなんであろうか。
それはすでに述べてきたところによってもわかるように、環境条件を重んじ、土作りにかたむいてきた考え方、いわば力の農業を、考える農業へきりかえることである。
そして、この考える農業は、考える農民によってのみはじめて可能となるわけである。
 
ぞう考える時、研究の対象はなんとしても栽培植物であり、稲だということである。
だから稲の発育を、正しく歴史的につかむということから出発するととが、なによりも重要なことだろう。
そしてその稲の育ちを、人間が求めるところへ高めるためには、そのおかれているそれぞれ違った条件の中で、どのような手段が必要であるか、その1つの手段として、どのように環境をかえていったらよいか、ということから、土壌の条件を考えるという行き方にきりかえることが大切なのである。
したがって、土作りがはじめにあって、稲作りがただこれに依存するという行き方こそ、反省されなければならない。
 
このように考えてくるとき、稲の健康な生長をねがい、すぐれた成熟を求めようと思うならば、なにをおいても稲の発育とはどのようなものであるか、いわば、稲という生命体はいかにして発展し、発育していくものであるかを考えないことには、どうにもならないと思うのである。
 
なぜなら、われわれが求める米という稲の子実は、稲という栽培植物が、その生命発展の結果として作り上げたものである。
いわんや、稲のみのりは、土の変化物でも、土の直接の産物でもないことを考えたいものである。