写真⑦_『新栽培技術の理論体系』と『葡萄の研究』.jpg

『商品米の生産』

商品米の生産の表紙.jpg

『商品米の生産』

商品的価値の高い「米(コメ)」を栽培する方法を、栄養週期理論を踏まえて検討したものです。

食管法制度が存在していた1963年(昭和38年)に書かれた本ですが、その頃から栄養価などの品質を伴わない、量と銘柄だけを優先させる「米(コメ)」では、食べる人から見捨てられてしまうことの危機を見事に予見していました。
この本では、栄養価が高く、食味に優れた「米(コメ)」を栽培するための、育苗方法、水田環境、施肥管理などについて、詳しく解説されています。
初版から既に46年も経過していますが、そこに記されている普遍的な内容は、決して時間の経過を感じさせません。
これから稲作を始める人、既に稲作をしていて「米(コメ)」の栄養価や食味を向上させたい人は必読です。

目次

第1部 稲作改造のための発育生理と発育診断

 第1章 稲作改造の考え方
  1:省費省力による良質多収の考え方
  2:良質多収のための稲発育の考え方

 第2章 稲作改造のための発芽生理
  1:健康な稲の発芽生理
   (1)発芽の良否をきめる種籾の質
   (2)発芽におよぽす籾の貯蔵養分
   (3)発芽を決定する外部条件
   (4)発芽の生理的条件
   (5)発芽の形態的変化
  2:稲の一生を左右する要素
   (1)生長におよぽす経歴性
   (2)ホーグランドの実験
   (3)発芽の診断
   (4)発芽の栄養生理

 第3章 稲作改造のための幼苗生理
  1:健康苗のための気候条件
   (1)幼苗の発育と水分
   (2)幼苗の発育と温度
   (3)幼首の発育と酸素
  2:健康苗のための土壌条件
  3:健康苗のための栄養条件
   (1)成苗の発育過程
   (2)成苗の栄養生理
   (3)育苗と無機栄養

 第4章 稲作改造のための分けつ生理
  1:すぐれた活着の生理と条件
   (1)活着と環境
   (2)活着と苗質
   (3)活着の条件
  2:すぐれた分けっと栄養
   (1)分けつとチッ素栄養
   (2)分けつとリシ酸栄養
   (3)分けつとカリ栄養
   (4)カリとチッ素の協働効果
   (5)分けつと成分比

 第5章 稲作改造のための発育転換
  1:花穂分化の生理
   (1)C/N関係説と花器分化
   (2)C/Nmの歴史的見方
  2:花穂分化と形態変化
  3:花穂分化と栄養生理
   (1)花穂分化とチッ素(N)栄養
   (2)花穂分化とリン酸(P)栄養
   (3)花穂分化とカリ(K)栄養
   (4)花穂分化と栄養比
  4:花穂の発育と栄養生理
   (1)花穂の発育と体内栄養
   (2)花穂の発育と養分貯蔵
   (3)養分貯蔵と施肥関係
   (4)花穂の形態的変化

 第6章 稲作改造のための生殖生理
  1:出穂、開花の生理と栄養
   (1)出穂の生理
   (2)開花の生理
   (3)受精の生理
  2:米粒の発育と成熟
   (l)米粒の発育
   (2)米粒の貯蔵養分集積

第2部 稲作改造のための実践

 第7章 移植栽培の改造
  1:移植栽培の特質
  2:育苗の改造
   (1)育苗の方向
   (2)良苗の条件
   (3)育首の形式
   (4)種子の条件
   (5)苗代の条件
   (6)苗代の播撞
   (7)苗代の施肥
   (8)苗代の管理
  3:本田栽培の改造
   (1)苗質の問題
   (2)苗質と本田条件との関連性
   (3)栽植密度
   (4)栽植方法
   (5)耕度と基肥
   (6)防除と除草
   (7)農用機械
  4:一般水田の稲作改造
   (1)本田の整地
   (2)植付
   (3)定植の方法
  5:単作地帯の稲作改造
   (1)単作地帯の特質
   (2)本田の耕起と代かき
   (3)植付け
   (4)施肥と管理
  6:寒冷地帯の稲作改造
   (1)寒冷地帯の特質と対策
  7:暖地秋落地帯の稲作改造
   (1)暖地の稲作
   (2)秋落ちの対策
   (3)秋落ち地帯の施肥管理

 第8章 直播栽培の改造
  1:直播栽培
  2:直播栽培の特質
   (1)直播栽培の問題点
  3:直播栽培の原則
  4:関東における直播栽培
  5:東北における直播栽培

序文


稲という植物、その生命体のあらんかぎりの機能を1つに結集して生みだしてくれる米という食品、これは日本人ならびにアジア人の血と文化を創造してくれたものである。
この意味で、米は将来もまた欠くことのできない重要な食品の1つといえよう。

ところで、この米という食品は、今や過去の供出米という古い観念から、新しい質と、すぐれた装いをかねた商品米へ急速に移らなければならない段階にさしかかってきた。
いいかえると時期別格差が後退し、等級別格差が前進することは必然である。

しかし、不幸にして日本の米作りは、過去の戦時的、戦後的な観念にわぎわいされて、未だに供出米生産という質のともなわない、量本位の指導が根づよい。
だから商品米生産の新しい時代がきているにもかかわらず、その研究と技術はいささか立ちおくれたという外はない。

これは、日本の農業と農民の発展のため、また消費者大衆のため、1つの不幸である。

近ごろ、米の生産にあたって、多くの農用資材……たとえば機械、薬、肥料などが研究され、そして1つの役割をはたしてきた。
しかし、それは今求められている商品米生産に直ちに結びつくかどうかは、疑問がないではない。
なぜならば、求めようとするものが量から質へ移行してきたのだから、一様な手法、一様な資材で解決されないであろうことは当然なことである。
それにもかかわらず、過去のものが、質的にちがったものにも一様に適用できるという通念……いいかえると、古い手で新しい事態をも形こうした考え方が日本人には何か残っている。
こうした空気があって、その発展を自らさまたげている。

いまや、栄養学的価値の高い、商品的価値の高い、いわば水分が少なく、炭水化物(デン粉)と蛋白、脂肪の比率の高い、そしてできるだけピタミン類とリン酸、カルシウム、カリ、テツ分などミネラルの多い米が要求されるであろうととは1つの事実である。
そして、それによって始めて、日本人の体位と、健康と、平均寿命の延長など、体質改造に役立ちうるのである。
だとすれば、その新しい時代の要求に、どのように米の生産を対応させたらよいかは、農業人の最も重要な問題点でなければならない。

ところが、今まで、米の生産手段は、多かれ少なかれ、供出米生産の立場に立っていたととは否定できない。
だから、その多くは、土壌の条件を必要以上に深く、豊かにすること……。
機械による深耕、多肥による地力づくり、さらに外部からおそってくる病虫害を薬で防除するとと……これらが供出米生産の主な手法だった。
こうした行き方が、それなりに何らかの目標を達成したことはいうまでもない。
しかし、商品米生産にあたってこうした機械的な方法論だけでよいだろうか。
真実に稲に心と目を向けている農民たちはこのかげに、意外に悲しい現実のあることを知っている。
たとえば、豊凶の差が、気候型によって大きくあらわれること、品質がよくないこと、生産コストがかさんでいること。
とくに気候型では倒伏と、未成熟が多く、労働の過重がおおく、経済的な不安が去らないことなどである。

これは農民の経済と農民の生活にとって、大きな問題であって、これらを解きほぐしていくこともまた、農学にたずさわるものの大きな使命ではないだろうか。
私は、こうした問題点を真に解きほぐしていくためには、新しい方法論をここにみちびき入れなければならないと考える。
このように考えてくるとき、稲の発育生理をもっと重要に考えるとともに、もっと具体的にその理論と実践との統一をはかることが大切ではないかと考える。
そして、その発育生理の立場から、機械、薬、肥料を考え直し、それを使いこなすということなしには新しい商品米生産はできるものではない。

とに角、すぐれた米を生産するには稲の発育の在り方が、これを決定する。
そしてその発育は、発芽のし方、苗の育ち方、根群の発生のし方、そして分けつのし方、花穂分化のし方、開花成熟のし方に1つ1つつながりをもっている。
しかも、気候により、土質により、品種により……その育ちはつねに一様ではない。
そこには発育のヒズミ(異常〉さえ生れてくる。
もし、この生理的なヒズミを予めつきつめ、診断できないとすれば、そして、それに対して機動的に必要な手段をうつことができないとするならば、稲の正常な且つ健康な発育をまっとおすることはできない。
ここに病虫害、風水害、と生理障害、たとえば倒伏、未成熟などが現われ、減収と品質低下と、そして悲惨な労働の過重が生れてくる。
多くの場合、これを災害だとして見すごしているが、人間の手段のまずさによる稲の発育のヒズミから引きおこされたものも意外に多い。

今日、多くの農用資材が出現したにもかかわらず、倒伏を排除できないのも、未成熟による品質低下を解決できないのも、実はここにあるのである。

だから、稲の発育生理の立場から、機械と薬と肥料をどのように使いこなすべきかを学びとったとき、はじめて機械と薬と肥料から振りまわされず、これを生きた場面に活用できるにちがいない。
そして、そのとき、労働は軽く、分散され、収量は安定し、品質は決定的によくなると考える。

これが商品米生産時代の1つの大きな新しい方向でおり、目標でなければならないと思う。
真実に農民の経済と文化の前進をねがうときに。

このようなねがいから書いたものが、この書である。
新しい条件には新しい考え方と新しい方法論とが、何としても必要不可欠だということを、新しいすぐれた米の生産に心をよせ、心をくだいている真摯な指導者とまじめな農民に、真実に理解してもらうために。

幸いにも、こうした新しい試みを快く引きうけて頂いた明文書房に対し、心から感謝の意をささげるとともに、またこうした研究と実験に長い間、広い耕地と時間をあたえられた、日本全土の研究者と農民諸氏に謝意を表わすところである。

1963年9月
恒屋棟介

LinkIconページTOP

再版の序文

新しい栽培技術の立場から考えると、現状を改めない限り、必ず行きづまるであろうと以前から予想していました。
ではそれは何故でしょうか。

・米の品質がよくないということ
中には「銘柄品種を選んでいるから、そのおそれはない」という人もいます。
しかしその銘柄米が誠にあやしい……冷害はうけるし、病虫害、生理障害等を最も受け易いのです。

・米価がはなはだ高いこと
経営面積が小きいから当然だといいます。
しかし、何としてもあの多肥、多薬、多機方式が高くしています。
言ってみればわざわざ多肥、多薬、多機方式で作るから高くなり、病害虫、生理障害への抵坑性を弱める。
だから殺菌剤が、殺虫剤だと多くなり、不健康米となります。
こうしてイネの体質を虚弱にし、それが農薬公害の米質につながります。
これでは消費者はたまりません。

このときこそこれを解決しよう。
でないと食管制度が変ったとき完全にどうにもなりません。
いわば今こそ米質改造のときであり、コストダウンの好機です。

それを目指した計画的集団的な「栄養週期米」生産のため、その重要文献として版を新たにしたところです。

1989年8月
恒屋棟介

LinkIconページTOP

第1部 稲作改造のための発育


生理と発育診断

第1章 稲作改造の考え方

1:省費省力による良質多収の考え方

稲という栽結植物が、人の手でつくられるのは、たんに多く収めようとするだけでなく、良い質の米をうるためである。
とくに現在、急速に量から質へ、いわば供出米から商品米へ移ってきているのを考えると、稲の生産技術も、過去の供出米生産を改造し、新しい商品米生産の方向に変っていく必要がある。
だから、今後の稲の栽培技術というものは、こんな目標をめざしたいものである。

1、いかにして安定多収をかちとるか。
2、いかにして最も優れた品質のものを生産するか。
3、いかにして生産コストを引き下げるか。

という3つの課題を、同時に解決していかなければ、新しい時代のうどきについていくととはできない。

このような立場に立って、稲の栽培学をひもとくに当たって、最も大切なのは、稲という栽培植物がどのような発育をしているかということである。
いいかえると、栽培者が稲の発育生理をもっと歴史的に理解してかからない限りは、安定収量も、品質改造も、生産費の切り下げも、たやすく解決できるものではない。

ところが日本の農業は、稲の栽培ばかりでなく、稲そのもの、栽培植物そのものの実体を、もっと深くつかんで取り組もうという態度がはなはだうすい。
いわば栽培の対象である稲自体をみつめるというよりは、栽培植物のまわりの条件、たとえば気候とか、土壌とか、こういった環境条件にひどく頭と手と力をつかってきた。
いや、いまでも、その傾向がほとんどわがもの顔に歩いている。
だから、収量の安定性が低く、品質がますますよくない方向に動き、生産コストがいよいよ高くなりつつあるのは、こうした生産手段に対する誤った傾向から生れてきたものである。

たとえば最近、とくにいわれている深耕の問題にしても、また古くから説かれている地力の問題にしても、土壌という環境をよくすることだけが、あたかも農業の経済を前進させ、農村の文化を発展させるというようにのべられてきた。
なるほど、あるところでは、ある年、これらがその1つを解決したようにみえることもあろう。
しかし、いつまでもそうした手段が、収量を永続的に安定させたり、品質を決定的に向上させたりするかといえば、そうではない。

現在、米の生産は大きくのびたといわれながら、商品米の生産がなされていないのは、こうした供出米生産にだけ依存しているからである。
しかも、この深耕するという手段にしても、地力をつくるという手段にしても、生産コストの面からみると、出費を多くしたというだけで経済的に必ずしも好ましいとはいえない。
ぞれにもかかわらず、多くの農民はややもすると追いつめられた動物のように、これでもか、あれでもかと、あちらこちらから聞きおよぶ限りの方法を、雑然とそそぎこもうとする。

そのたびに生産コストはかさみ、自ら疲れ、若い青少年たちから嫌われようとしていることすら、半ばおかまいなしである。
しかし、このように人間のウデのカと生産費を、稲のまわりにそそぎこんだものが、一たび気候の変調にぶつつかると、病害と倒伏、不稔に直面する。
ここに収量は不安定になってしまうし、また品質をひどく落してしまう。
こうしたことは多かれ少なかれ、日本の農業の宿命となっているようである。

何故であろうか。
これは過去の長い歴史の過程の中で農民は長い間、自ら考えること、自ら学びとるととをさけるように導かれてきたことにもよるだろうか。
だから、その習性は、今に至るまで体のどこかに受けつがれ、力を大地にぷっつけるととが農業であるという錯覚すらもつようになった。
これはもちろん、農民自体の罪ではないかも知れない。
しかし、いま民主主義をうたい、たたえる時代において、もし、この力による農業にしか魅力をもたないならば、とれがどんな機械力によっておきかえられても、あまりほめられるものではない。

まず、農民の生活が何故に豊かにならないのか。
そこにはいろいろなみにくい政治的なからくりと、後手ばかりの農政のまずさにもあろう。
しかし、ここで考えたいのは、農業人の生活態度、生産手段の中にも欠けるところがないかということを考えてみよう。
いわば、農村の生活態度の中に、生産手段の中に、いくつかの誤りと矛盾がひそんでいないかということである。

多くの場合、そこに誤りと矛盾が、身辺にまつわり過ぎている。
そのために、農業の生産は不安定で、コスト高である。
しかも現代、最も要求されている商品米の生産も、省費省力もなかなか解決しない。
したがって、新しい時代には新しい方法論をもってしなければ、新しい前進も、正しい発展もないということである。

では、いったい、この新しい方法論とはなんであろうか。
それはすでに述べてきたところによってもわかるように、環境条件を重んじ、土作りにかたむいてきた考え方、いわば力の農業を、考える農業へきりかえることである。
そして、この考える農業は、考える農民によってのみはじめて可能となるわけである。

ぞう考える時、研究の対象はなんとしても栽培植物であり、稲だということである。
だから稲の発育を、正しく歴史的につかむということから出発するととが、なによりも重要なことだろう。
そしてその稲の育ちを、人間が求めるところへ高めるためには、そのおかれているそれぞれ違った条件の中で、どのような手段が必要であるか、その1つの手段として、どのように環境をかえていったらよいか、ということから、土壌の条件を考えるという行き方にきりかえることが大切なのである。
したがって、土作りがはじめにあって、稲作りがただこれに依存するという行き方こそ、反省されなければならない。

このように考えてくるとき、稲の健康な生長をねがい、すぐれた成熟を求めようと思うならば、なにをおいても稲の発育とはどのようなものであるか、いわば、稲という生命体はいかにして発展し、発育していくものであるかを考えないことには、どうにもならないと思うのである。

なぜなら、われわれが求める米という稲の子実は、稲という栽培植物が、その生命発展の結果として作り上げたものである。
いわんや、稲のみのりは、土の変化物でも、土の直接の産物でもないことを考えたいものである。

LinkIconページTOP

第1章 稲作改造の考え方

2:良質多収のための稲発育の考え方

稲のよりよい生産をあげるためには、まず、稲の発育過程そのものに目を注ぐことが必要である。
その上に立って、よりよい分けつと、分化と、成熟をとげさせるには、おかれた条件の中で、環境にどのような変更の手を加えなければならないかを学ぶことである。
さらに他の栽培手段と環境とを統一して考えていくととが、どうしても大切になってくるだろう。

それではいったい、稲という植物は、どのような育ちをしているものだろうか。
あるいは、発育ということを、なにかただ体の量をますだけだ、というようにみている人もあろう。
いや、稲の育ちに対してこうした見方をしている人は、きわめて多い。
このような考え方から出発すれば、稲作りは何時までたっても解決点を発見することはできない。
だから、稲の育ちというもの色もう一度考え直してかからなければならない。

さて、稲が体の量を増大していくはたらきは、分けつや生長などといわれている。
いわばこれは葉や茎や根といった栄養体(栄養器官)が育つ生長であるから、栄養成長というととができる。

ところで、稲が分けつや生長だけで終わるものでないととは、少なくとも稲と取り組んできた人であれば誰でも理解できる。
いいかえると、稲ははじめ自らの体を、一定の大きさと、広がりにまで増大させようとする。
いわゆる栄養生長なのである。
しかし、それはただ体の一定葉面積を得るために必要なはたらき方で、それ自体が最終の目的ではない。

稲は若い頃、このようにして分けつと生長の段階にはいるが、そうした発育をいつまでも一様につづけるわけではない。
葉の色は少しずつ冴えた緑色となり、茎の基部がふくらみ、いわゆる穂パラミ期といわれる時代をむかえる。
さらに出穂、開花から成熟の段階にはいっていくものである。

このように見てくると、稲の育ちは、葉や茎、根などの栄養体をつくる時代から出発し、その育ちをきりかえ、ついに花や子実などの、いわば生殖体(生殖器官)が育つ時代にはいって、一生をおわるものである。
この生殖体が育つ時代は、栄養生長とは育ち方もちがうから、生殖生長期といえよう。

そこでこのことをいま一度よく考えてみよう。
稲はその一生の育ちの中で、はじめは葉・茎・根が育ち、後には花や、種子が育っていくが、このことは大きな遣いなのであって、これを上っ面だけで、考えたりすると、生産の上にいろいろな矛盾をさらけだすことになる。
たとえば品質を低下させたり、収量を不安定にしたり、また、多肥、多薬、多労になったりするのは、こうした稲の育ち方を漠然とみているととろにある。

さて、とこに述べてきたのは、稲の生活というものは、一生の発育過程の中で、若いころの育ち方と、一生の半ばをすぎたころの育ち方とでは、1つの大きな違いがあるということである。
この発育の変化は、同じ体の中で起きるわけだから、その体の中で、それまでとちがった質の変化が起らない限りは、新しい花穂の分化も、子実の成熟も生まれてはこない。
つまり、茎や葉の育つ栄養生長から、花や子実である生殖生長にうつっていくためには、栄養生長とちがった異質な育ちがおきなければ、そのような発育はおこらない。

このような質の変化が、いわゆる分化といわれているもので、どうしても見のがすととのできない大切な発育の段階である。
たとえば、分けつの末期になると、茎の頂点、に、小さな花器、いわば将来の花穂が準備されるわけであるが、これは茎の頂点、いいかえると栄養体の一部におこる1つの変化である。
この花器(花穂)という小さな部分は、すでに栄養体の中に、それとは質のちがった生殖体が芽ばえてきたと考えてよい。
そしてこの変化こそ、質的変化に移った証拠で、分けついわば、生長とはわけが違うのである。
なぜなら分けつ(生長)は量の変化にすぎないが、花を用意するという分化は、質的変化によって生まれてきたものだからである。

稲の発育は、このように1つの株、1つの茎でも、はじめの育ち方と、終わりの育ち方とはそれぞれ違っているもので、いわば、分化というはたらきで、きりかえられていくのである。
わかりやすくこのことを示せば次のようになろう(図1)。

LinkIconページTOP

『商品米の生産』_図1_イネの一生.bmp

『商品米の生産』_図1_イネの一生_2.bmp

ここで最も大切なことは、稲という植物は時聞がたつにつれて、その育ち方は違っているということである。
したがって稲はただ量的変化(生長)だけをしているというような考え方で、稲作りにのぞんだり、またこうした育ち方の区別をどうでもよいといった考え方で、漠然と稲作りをしていると、その人がどのように労力と肥料と薬を用い、丹精をこめても、いつでもすぐれた米を、コスト安に作るということはできない。

要約すれば、稲の発育は、体の大きさと広がりを増大しようとする、分けつ期から出発する。
しかし分けつだけで終るものでなく、一定の時聞が経過するにつれて、いろいろな質的変化をしていくもので、この結果、花が用意され、花穂が発達し、それがついに開花結実して、子実のもとを形づくり、その成熟をはかっておわるものである。

このように稲は、生長と分化とによって発展していくもので、この2つをを統一して考えたものが発育というととなのである。

だからもし、稲の分けつがどんなに量的増大をなしとげても、その体の中にすぐれた花器、花穂の分化がおこらなかったり、子実の成熟がうまくすすまなかったとするなら、これは藁(わら)とりになるか、また質の悪い供出米生産にしかならない。
したがって、こうした考えの中からは、新しい時代の商品米生産は生れてこない。

・・・・・・・

LinkIconページTOP