「栄養週期理論」とは

栄養週期理論のあらましを以下に記しました。

 簡単に言うと栄養週期理論とは、「作物の発育の段階や育ち方に応じて適切な栄養状態に導こうという考え方」です。作物のたねの時期、芽を出した時期、生長を開始し大きくなっていく時期、果実や穂を実らせる時期、それぞれに作物のあるべき栄養状態が違うはずだから、それに応じて栄養素の与え方を変え、同時に様々な対処をしていきます。人間でも、幼児の時、小学生の時、体が大きくなる青年期、成熟した時期、それぞれ求める栄養素の質や量は変わります。それと同じように考えます。
 栄養週期という言葉は聞きなれないと思いますので、以下に解説を試みます。
 栄養というのは、「物質を取り込んで体を維持したりする過程」という意味が本来の意味のようですが、栄養素の意味で使われている場合もあります。前者は「栄養状態」というふうに呼べばわかりやすいと思います。栄養週期理論で言う栄養も「栄養状態」の意味で使われていることが多いと思います。週期は日本の辞書で見つけることはできませんが、周期とおおむね同じ意味のようです。栄養週期理論の提唱者である大井上康の著書「新栽培技術の理論体系」の初版本には、項立てについては英語の表記があり、栄養週期はNutrioperiodism と書かれています。Nutrio-は栄養、periodismは周期性のことですから、栄養の周期的現象のことと考えて良いようです。
 周期的現象とは、「一般に一定の時間間隔で繰り返して同じ状態が現れる現象」のことですから、作物を対象とした場合は、栄養素に対する要求の仕方や体内における栄養状態の変化が毎年同じように繰り返される現象であるので、栄養週期という表現をとったのかもしれません。ブドウのような樹木であれば、毎年繰り返されますが、イネのような一年生の作物では一回性です。ただ、作物栽培という観点からは毎年繰り返すことになります。
 この理論で明快なところは、作物が発育の段階に応じて要求する栄養素を異にし、また作物体内の栄養物質の存在の仕方も変わってくるというところにあります。そして、その段階に応じて栄養素の与え方を変えて行きます。ですから、これを「発育段階栄養説」などと呼んだほうが分かりやすいように思えます。しかし、大井上康氏は「栄養週期」と呼ぶことにしました。そこには、作物の栽培は毎年繰り返えすという視点、個々の作物は前年までの過去の経歴を引き継いでいるという視点を表現したのだと思います。
 上記の記述を踏まえて、栄養週期理論を簡単に定義してみます。
 「発育の段階に応じた作物の生理学的特性、それぞれの作物の経歴および作物と環境との関係を踏まえ、発育段階に応じて良好な栄養状態に導くように栽培管理を行う栽培理論である。

 日本巨峰会が発行する会員誌、「理農技術」の第3号(1952年8月発行)には、大井上康氏の「栄週とは一体なんだろう」 (注:栄週とは「栄養週期栽培や栄養週期理論」の略語)という記事が掲載されています。大井上康氏がなくなったのが1952年の9月なので、栄養週期理論についてその概要を亡くなる間際に本人が綴ったものです。そこに書かれている内容を抜粋して以下に掲げます。
 なお、括弧〔 〕付きの項立ては、ホームページの管理者がつけたものです。


栄週とは一体なんだろう

〔栄養週期栽培でいう良い育ち〕
世の中は均衡(つりあい又はバランス)の中に安定を保っている。ただ、この均衡は一つも一様ではなく、本体の発展段階、外部環境つまり「場」の動きとそのバランス、そして本体の場の中でのバランスがあって、しかもそれが絶えず移動変化しつつ新しい均衡点を作って行くので、均衡の仕方は刻々変りつつ、しかしなお均衡を失わない。従って均衡とは、あるものが、ある時、ある場において、生理的、形態的なその時の正しい在り方にあって、組織的な仕事をやっていることに他ならない。できそこないは不均衡発育であり不健康である。健康であるということが私共の言うよい出来である。栄養週期説でいうよい育ちは、このような立場から言うのである。

〔だれのための栄養週期栽培か〕
興味深いことには、体当り的な実践者から、栄養週期理論は正しい理解と技術の習得がなされ、申し合せたように名誉心や野心のない純情で勇敢で、おまけに貧乏な連中と決まっているから私も驚いている。したがって貧農に正しく理解され易く、富農に本当の理解の得にくい農学理論であるということができる。富農は頭で理解して反対することが多い。多肥多収の労力愛好主義に陥り易いのは個々の経済的事情と、その中から育くまれた心理と生活力の余裕とから自然発生するものらしい。貧しい農民でも、打開策を富農のイデオロギーに準じている人々はやはり増産となると、がぜん篤農精神の崇敬者となってしまうものが実に多いようである。特に小利巧で才の利く人は増産などに小さなことをほじるのが馬鹿らしく、もっとスッとする方法、帰着させれば面積とか、肥料とかに物をいわせたいのである。
かくして、五人手間しかない人が八人分を耕作し、人一倍の努力を傾け、魚のない祭やら、日曜のない農業を永久化することを恐れないでつき進む結果、栽培技術はいつまでも封建性を脱ぎ切れないで、投機的巨大収穫の出現期待ということになる。
私達の技術観、増収観はこれとは全く違った立場に立っているのである。増収は誰のためか?これは栽培者のためである。この増収は何ではかるか?まず金銭か、または生産物である。作る人のフトコロを暖かくし、生活水準を引き上げるためだ。

〔技術体系の改革〕
しかし、面積を増すこともできず、資本増加も不可能、労力も一杯一杯の場合はもはや技術体系の改革より他に方法はないはずである。科学は、人間の文化水準の上昇に寄与すべき責任を持つ。それは趣味ではない。学問は道楽的存在ではない。崇高なる義務概念である。

〔具体から生まれる理論の必要性〕
しょせん、科学は人的所産である。しかし、人は自然の一部だから思惟の結果はその過程さえ誤たなければ極めて唯物的で、自然的で、従って最も客観的である。
人の行動は無軌道であってはならない。正しい基準、つまり理想又は理論が絶対必要である。どう考えるべきか、どう動くべきかの指示を理論が行う。気まま勝手な無思想ではいけない。だから思想をつくり上げるのに現実を少しでも離れたり、浮き上ったりしてはならない。現実の世界を、そのあるがままに眺め、検討し、そのままの姿で真実を把握しなければならぬ。本当に客観的に徹し得るような主観こそ真の主観であり、客観であろう。こうならねばならぬというのは理論が示すものであるが、その理論はいつも具体的なものから生れなくてはならないのである。

〔何を収穫物に求めるのかを明確にする〕
農業収量は、最後に得ようとする形で、最大質量にするものであることをいつも心底におかなくてはならない。生菜として欲しいのか、乾菜として入用なのか、はたまた葉緑素がほしいのか、あるいはもっと歴史的に将来の生成物たる花や、更に種子が入用なのか等は、作付けに先だって知らなければならず、知っているならばいつでもこれをはっきり意識しておく必要がある。

〔作物の特性の理解と安定収量の確保〕
次に作物が生物であり、従ってその発生と発展の型を知っておく必要がある。つまり発生、生長、成熱、及び死の順序とその展開型、消費生長と蓄積生長、その分れ目、過程、動機、必要な場の構成、そしてそれを決定づけるもろもろの生化学的現象を通じて、作物のあり方が変化すること等々。作物は発育の一定経過後でなくては収穫に達せず、これに要する時間は場の条件によって異なるのであるが、その発生と発展の型は概ね推定できる。
推定した資料から、その時の最多攻量を得る一連の技術を発見することが可能となる。こうして栄養週期説に基づく技術は、いわゆる通俗的に考える多収穫法ではなく、作物の特性の理解の上にたった多収法である。その特徴は、安定的で、推定が可能で、平均的で、総論的で、経済的である。栄養週期説で言う多収とは絶対収量の増加のみを言っているのではない。また、単なる経験的、見込的なものとは鋭く対立する。比較の仕方と、その重点の置き方が違っているのである。

〔栄養週期栽培とは〕
作物は発生し、充分な量を生産し、生産したものは完全に成熟し、生理的活動が終了する。このような段階に応じて、必要な発育の場の条件をととのえるのが栽培である。同時に、場と作物との複雑な相互作用や生長に及ぼす経歴を考えることは重要である。
栄養、生長、生殖、交代、過渡期、場(一部経歴として)、成熱、死等に関する理解が農業の技術(狭い意味)としっかり結びついた時、栄養週期説の便利さと必要性とが痛感されるであろう。


 この遺稿の中に栄養週期栽培のいくつかの特徴や大井上康氏の農業に取り組む姿勢が表れています。このような立場から、このサイトで紹介する書籍も記されています。

 「栄養週期理論」を理解するのに適した書籍としては、現時点では以下の3冊があります。

「栄養週期理論」を理解・実践する上で適した書籍

  1:『大井上康 講演録』 (入門書として適しています。)
  2:『新栽培技術の理論体系』 (栄養週期理論の原典です。)
  3:『微量栄養素と施肥設計』 (栄養週期理論に基づく実践書です。)

  • なお、『家庭菜園の実際』は、在庫がなくなり販売終了となっております。


 それぞれの書籍の内容については、書籍コーナーを参照いただければと思います。

書籍のご案内LinkIcon